案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年9月27日水曜日

昭和40年7月北海道 真谷地専用鉄道1

田辺さんの北海道古典ロコめぐり。
藤田炭鉱、明治鉱業昭和炭鉱、雄別鉄道、美唄に引き続き、今回は北海道炭鉱汽船 真谷地専用鉄道です。写真はボールドウィン5052号の最後の活躍。
極端に本数が少ない貴重な旅客列車を田辺さんは何本も撮っていました。大カーブのところで何時間も粘ったことでしょう。

 
 撮影:田辺多知夫氏 1965.7.21
沼ノ沢を出た築堤のカーブを行く貴重な旅客列車の写真。1966(昭和41)年まで便乗扱いで旅客を輸送したそうです。




築堤大カーブを行く。

2017年9月24日日曜日

再掲 草軽電鉄の現役時代

2013年7月に掲載した鉄研OBのM先輩が撮った草軽電鉄の現役時代を画像拡大で再掲します。
全線営業していた1958年と、吾妻川橋梁流出により上州三原で分断後の1960年と1961年に訪問し撮影されたもので、改めて壮大な自然と生活感溢れる草軽のスケールの大きさを感じてきます。

    撮影:鉄研OBのM先輩
上州三原駅. 1961年
この先の吾妻川手前で線路は行止まりとなっている。1959(昭和34)年の台風により吾妻川橋梁流出のためこの駅で分断された。新軽井沢~嬬恋間が先に廃線となった後、残された上州三原~草津温泉間は写真の翌年春(1962年2月)に廃線となった。

ホハ30形の車風景 1958年
草軽に多かった片側クロスシート。顔を近づけて会話ができるのが良いが、狭い車内をロングシートの客の膝を避けながら歩くのは大変であったろう。車体の内幅は1950mm。

草津温泉の2駅手前の草津前口駅で硫黄の積込みをしている。ここから新軽井沢まで運び国鉄貨車に積み替えていた。1958年

国境平
この線路配置は、全ての駅の構内図と照合すると国境平から二度上方面を見た線路配置と一致する。


無蓋車とホハ30を牽く草軽の代表的な編成が新軽井沢へ向かう。 嬬恋?

鶴溜


長日向を発車し草津方面へ向かう。

吾妻川橋梁を渡り新軽井沢へ向かう。

2017年9月22日金曜日

草軽電鉄 新軽井沢駅

私が初めて信越線軽井沢駅前で草軽を見たのは昭和38年、その時はすでに廃線3年後で新軽井沢駅はバスの拠点になっていた。構内には無数のボギー貨車が台車を外されて置いてあったが、その頃は情報不足で私には草軽廃線の経緯がよく把握できていなかった。よく分からぬまま新軽井沢駅の構内を撮ったのはオリンパスペンの4枚だけであった。

廃線後の新軽井沢駅  1963.7.21
草軽電鉄の新軽井沢駅がそのままバスターミナルに。1960年4月廃線の3年後で「電車・バスのりば」の看板が「草軽バスのりば」へ書きかえられていた。

以下はオリンパスペンで撮った4枚
駅はバスの施設となり草軽の貨車の車体が残されていた。

新軽井沢駅

その時の信越本線 軽井沢駅

以下は昭和33年 現役時代
新軽井沢駅構内のデキ 1958(S33)年

区間運転のモハ100形 新軽井沢-旧軽井沢 1958(S33)年


2017年9月20日水曜日

写真展 「草軽高原を往く」-北軽井沢・草軽電鉄の時代-

連休明け秋晴れの19日、9月10日~9月24日まで旧草軽電鉄 北軽井沢駅舎で開催中の写真展に行ってきました。草軽電鉄が走った土地の空気を吸いに行く目的もあり、平日の快晴を狙って軽井沢駅からバスでのんびりと北軽井沢へ向かったのでした。

秋晴れの軽井沢

軽井沢駅から北軽井沢までバスで40分ほど、車窓に浅間山を望めたのはこの一瞬のみ。

写真展会場となった旧北軽井沢駅舎。

写真展会場の入口。

駅ごとに纏められた展示パネル。
写真展は長野原町の二度平から小代までの区間約20kmに存在した5つの駅に限定したもので、二度上、栗平、北軽井沢、吾妻、小代の駅がパネルごとに纏められていました。

先人のカメラアイの素晴らしさと、小林さんの組写真の纏め方と説明文には唸りました。これほど感銘を受けた写真展は初めてです。
単品並べた写真展と違うのは、主催者小林隆則さんの草軽電鉄と草軽が走った土地への想いと拘りで、草軽電鉄に的を絞ったこれまでの奥深い活動を感じました。

展示パネルの纏め方と文章による情景描写にそれが表れていて、あの情景描写の文章を書くまでに一体どれだけの調査や聞き取りなどがあったことでしょうか。中でも2枚のパネルに纏められた小代(こよ)駅の純日本的な農村風景には動けなくなりました。

是非とも東京の大きな会場でも開催して戴き、多くの人に鉄道写真(情景描写)のインパクトを広められたらと思います。


2017年9月17日日曜日

鹿島鉄道 小川高校下駅

10年前の2007年春に消えた鹿島鉄道。その6年後2013年に茨城県立小川高校が閉校したのを今日Facebookで知った。あの「かしてつ応援団」の中心として活動した小川高校。鹿島鉄道が消え、その後、小川高校まで消えてしまったとは、なんとも悲しい。

2002年から2007年にかけて、鹿島鉄道の沿線にある中学校や高等学校の生徒会が組織し鹿島鉄道の存続運動を展開した「かしてつ応援団(鹿島鉄道沿線中高生徒会連絡会)」の中心として活動した。
2010年度より募集停止、2012年度末閉校→茨城県立中央高等学校に併合が決定しており、2013年3月に最後の卒業生を送り出し閉校した。wikipediaより

最終日の記念切符
廃線前に通った小川高校下駅はこんな感じであった。2007年3月

廃線して12日が経った錆びたレールと使われなくなった駅。2007年4月

小川高校下駅に向かう道。2007年4月

廃線後も残る「かしてつ応援」のペイント。2007年4月

鉄道が無くなり、並走する道路のバス停「小川高校下」で待つ高校生たち。この頃はまだiPhone、スマホが普及していない時代であった。2007年4月


線路際の田んぼにキジが舞っていた。

霞ヶ浦を行く鹿島鉄道。桃浦-小川高校下  2007年3月

2017年9月15日金曜日

駿遠線 バック運転のDB605

蒙古の戦車DB601~609で最も複雑な遍歴で訳の分からないDB605の素晴らしい写真を夢遊仙人さんからお借りしました。
このDB605はブタと衝突して川に転落、複雑な改造遍歴と改番、そして大手支線のバック運転走行等々逸話が尽きない機関車です。

DB605がバック運転で大手支線を新藤枝へ向かう。 1962年8月

よく見ると他のDBと違って運転席が横に向いている。

バック運転走行の件ですが、逆転機がない端単式の蒙古の戦車はクルマと同じようにバックギヤで短距離なら走れる。バックで短距離の大手支線を走行したのがこの写真。そういえば沼尻の端単式ガソもバック運転で走っていました。後進ギヤが焼き付かなかったのでしょうか。

以下の画像は以前に紹介済み画像です。
 中村修 著 「駿遠線物語」袋井工場物語の表紙にあったDB605の写真.


「駿遠線物語」著者によるDB605の解説と逸話です。
この機関車の前位ボンネット内には変速機、後位にはエンジンで、逆転機はありませんでした。すなわちこの列車は、バックギアで走行していたのです。ちなみに運転台の座席も、移動式の丸椅子(派生品応用)だった可能性があります。
駿遠線のDB60形機関車は、大型バス用の自動車用品を多用して製造されました。自動車用品に逆転機は無く、これだけ高価な鉄道用品を使用する訳には行きませんでした。このため一連の同機は、転車台(ターンテーブル)での方向転換を前提に、ディーゼル機関車ながら逆転機なしで製造されていたのです。
一方でこの列車の始発だったと思われる大手駅の転車台には、不思議なことがありました。おそらく水脈の上にあったのか、大雨や台風などの後で晴天になると、コンコンと清水が湧き出すのです。その水はやがて引くのですが、この幻の清水は、城下町藤枝一の名水と言われました。このため当時盛んだった「お茶会」で珍重され、時には有名な家元の依頼で、着物の人がわざわざこの水を汲みに来たりしていたそうです。
もしかするとこの列車は、お茶会の「水取り」を待って発車時刻に間に合わなくなり、止む無くバック運転をしていたのかもしれません。そんなロマンが、城下町を走る軽便鉄道には許されて良いのかもしれません。遠い歴史の彼方に去って行った、DB60形牽引の不思議な列車風景。1枚の写真の裏には、このように多くの事実が隠されております。このたびも貴重なHPを拝見させていただき、誠にありがとうございました。


2017年9月4日月曜日

駿遠線のDB601

駿遠線と言えばお馴染みの蒙古の戦車。しかしDB601はあまり馴染みがなく私も動いているのを見たことがありません。以下は駿遠線の逸話と資料集「駿遠線物語」の著書 中村修さんから戴いた図面と車両解説です。

DB601原型
DB601  1953年改造

DB601
昭和26(1951)年5月、自社大手工場製の改造第1号機。廃車となったB7形蒸気機関車7号機の足回りを転用し、蒸気機関(ボイラーやシリンダー類)をディーゼル機関(エンジン)に換装した形となった。自重7トンのB凸形で、全長5,047ミリ、動輪径610ミリ。機関は金剛のDA60を装備し、出力110PS、回転数2,200rpm、牽引重量47トンだった。その後昭和28(1953)年11月に改造認可を得、車軸配置B1をBとし、全長5,130ミリに改造された。 解説:中村修さん


蒸機下回りを利用したディーゼル機関車への改造は森製作所などでよく行われていたが、駿遠線は全て自社工場の改造であり、改造当初のDB601は下回りに蒸機時代の名残を残していた。その後、少しづつ改造を進め最期は相良で見た姿であった。
もっと凄いのはDB605で、晩年には車体を実質的に振り替えDB606に改番された。そして、赤穂鉄道からきたDC102を改造した別のDB606もいたので、訳が分からなくなってくる機関車である。

上の図面に近いDB601(前から見る)  袋井  1963.4.4

相良で見たDB601(後から見る)  1966.9.23
袋井で見た3年後、前部の外装が改造されていた。

2017年9月1日金曜日

駿遠線の客車

今年5月にアップしたものの、つまらなぬものと思い引っ込めた車両写真集です。消去しようと思いましたが再度アッブしてみます。

駿遠線の客車の車両写真をランダムにアップしてみます。1967年7月9日撮影だけでもこれだけ、巨大軽便 総勢45両(客車)のほんの一部に過ぎません。車両写真の羅列は興味半減ですが敢えてやってみました。これらの客車が沿線住民にどう利用されたのか、活きた場面が最も関心あるところです。

ハ3 袋井工場 1967.7.9

 ハ115  ↑
 ハ19
 ハ2
 ハ106
  同時期撮影でこれとは別のハ106(バス窓ではない)がいる.駿遠線にはよくあること.
ハ107
 ハ103
 ハ10
 ハ9
ハ20
ハ28
ハ13 新藤枝