案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年5月21日日曜日

駿遠線の線路

駿遠線を袋井から諸井の先へ進むと何の変哲もない茶畑や田んぼの中をナローの線路が延びていた。ナローの線路に威圧感はなく自然に溶け込んでいる。こんな線路が御前崎を通って新藤枝まで延々60kmほど走り続ける駿遠線は正に巨大軽便。写真は巨大軽便のほんの入口に過ぎなかった。

諸井~芝  1964.11.01 


4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 まさに懐かしの鉄路という言葉がピッタリの、今回のご更新をありがとうございました。中でも客車ハ8の後ろ姿や、農作業中の方の後ろを走る単行気動車(内燃客車)、とても趣の深いお写真に感涙しております。ちなみにハ8・9は同形客車ながら、前者は貫通扉跡を丁寧に埋め、後者はその痕跡が残されています。そのため今回のお写真が、ハ8だと推測されました。ところで駿遠線で客車の貫通扉が埋められたのは、長大な大井川橋梁での強烈な風の吹き通し、いわゆる「遠州の空っ風」を避けるためでした。これは後に草軽電鉄から導入されたハ113~115にも適用され、貫通扉の痕跡は内側からしっかりと密閉されておりました。
 余談ですが、現在の鉄路たるレールは50kg/m以上が中心で、37kg/mなどは僅かに残されている程度です。ところが軽便鉄道用のレールたる、6~22kg/mが現在も生産され、販売され続けているのです。これらは工事用軌道が主な使用者で、いわば軽便鉄道はその姿を変えて生き続けているのです。それらは東京都内にも存在し、例えば首都高速道路の地下工事や、巨大下水道網の建設工事等にも使用されております。人知れず生き続ける軽便鉄道!そこにはかつてのロマン溢れる姿や、旅情や詩情などを感ずることはできないようですが…。
 このたびの心安らぐ軽便鉄道、駿遠線のかつての姿を、誠にありがとうございました。これからも軽便鉄道に限らず、心温まる鉄道光景・情景の数々のご公開を、何とぞよろしくお願い申し上げます。

katsu さんのコメント...

匿名さん
いろいろと貴重な情報をありがとうございました。
駿遠線の車両は余りにも大世帯で、私は客車などかなり撮りましたが未だに整理がついていません。同一形式でも1両ごとに違っているのでしょうね。大井川橋梁を渡るときの「遠州の空っ風」ですか、いいですね風情が湧いてきます。
軽便の細いレールの生産・販売が今も続いているとは知りませんでした。細いレールの狭い線路は車両がなくてもそれだけで絵になるので、写真を撮ってみたいものです。

匿名 さんのコメント...

 まことに恐縮ながら、駿遠線の客車の追伸です。同線の客車群はまさに百鬼夜行で、木造車33両、鋼製車15両の計48両がありました。木造客車の出身は、前身の藤相鉄道と中遠鉄道ばかりではなく、北は仙北鉄道(宮城県)から南は佐世保鉄道(長崎県)と、全国各地に及んでいました。中でも三重交通(三交)からは6両と、大きな比重を占めています。この三交と駿遠線の関係は、後の鋼製客車にも及びます。すなわち自社工場製のハ107~111は、三交の後身たる近鉄サ130形とそっくりで、ハ112(後にハ108に改番)などはサ140形と瓜二つでした。この近鉄と静岡鉄道(静鉄)の関係を詳しく調べてみると、実に意外な真相が判明しました。
 ご存知のように静鉄は東急を親会社として、戦時合併により誕生しています。なぜ東急は、自分の営業エリアから離れた静岡県に、静鉄を誕生させたのでしょうか?実は静鉄は、東急とは兄弟会社であり、近鉄とは従弟関係にあったのです。すなわち東急の親分たる五島慶太氏と、後の近鉄社長となる佐伯勇氏は、ある会社に同期入社の間柄。しかも同じ大学出身の先輩・後輩の仲でもあり、大いに気が合っていたものと思われます。その会社とは、近鉄の前身である大阪電気軌道(大軌)と参宮急行電鉄(参急)のグループでした。同期入社ではありましたが、五島氏は取締役として、佐伯氏は学卒初の新入社員としての入社でした。そのためこの両者は、いわば実業界での兄弟関係に当り、佐伯氏が近鉄中興の祖となる道を五島氏が陰で支えていたのかもしれません。
 当時の近鉄は戦時合併により関西急行鉄道(関急)となり、大阪と東京を全て私鉄で結ぶ、国鉄東海道本線の代替線建設の計画がありました。これは万一の敵の猛攻撃により、国鉄東海道本線が不通になった場合の戦時対策でした。このためすでに大阪からは名鉄を介して、愛知県の豊橋までは道が開かれていました。一方で大東急は、東京(新宿)から小田原までの路線があり、国鉄御殿場線を介して静岡県までの道がありました。残る静岡県さえ何とかすれば、私鉄による東海道本線という構想は実現可能となります。その目的をもって、五島氏は静鉄の戦時合併による設立という、難事業に取組んだという次第です。
 歴史に「もしも」は許されませんが、駿遠線は世が世ならば、私鉄東海道本線の一部になっていたかもしれません。そこには特急列車や、寝台列車が走っていたのかもしれません。もちろん軽便鉄道のままではなかったでしょうが…。このように駿遠線という路線には、壮大な夢やロマンが秘められております。これからも機会がありましたら、駿遠線に関するホームページのご更新を、何とぞよろしくお願い申し上げます。

katsu さんのコメント...

匿名さん
いろいろと情報ありがとうこざいました。
三重交通の客車サ130形を駿遠のハ107~111と比べてみました。
軽便の鋼製客車はオデコの丸みやバス窓で似たようになるのでしょう。
三重交通から来たハ23~26、ハ27 28がいたのですね。
改造で三重交通の面影はないとか。