案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年3月31日金曜日

倉敷市交通局 リニューアル

倉敷市交通局をアップしたのは7年も昔のことでした。貨物輸送が主体で旅客輸送に関してはこれと言った特徴もない地味な路線、画像を今のサイズにしてリニューアルします。

1970年に設立された水島臨海鉄道の前身は、この倉敷市交通局であった。
昭和37年夏に訪問した時、旅客輸送は元国鉄のキハ305が水島~倉敷市間を往復していて実に平凡な路線であった。交通公社の時刻表に出ていたのを頼りに訪ね水島から倉敷市まで乗ってみた。今、改めて写真を見てみるとどれも人が全く写っていない。当時の時刻表によればこの区間をバスが77往復/日も走っていたので日中鉄道に乗る人は少なかったのだろう。


この日の朝に見たのは満員の下津井電鉄であった.1962.07.30

真夏の太陽のもと、ひと気がない殺風景な水島駅. 1962.07.30

前年に国鉄から払い下げを受けこの年の2月に認可得たばかりのオハ31系4両.水島工業地帯の通勤ラッシュ時にディーゼル機牽引で運用されたようだ.日中はこうして遊んでいた.

  今と違って心地よかった真夏の太陽を浴びて休む ホフ301
昭和23年に国鉄から払い下げを受けたキハニで、前身は芸備鉄道のガソリンカーであった.

静まり返った水島駅.駅の時刻表を見ると上り8時50分の次はなんと11時50分まで列車がない.

水島駅で発車を待つ倉敷市行のキハ305.元中国鉄道のキハニ.

素晴らしき特等席
キハ305の運転台

プロペラシャフト駆動特有の偏心台車
振興造機DMF13エンジン
地方私鉄へ行けば必ず撮ったのがこうした模型製作のための資料写真、しかしこの種の写真は結局活用されることは無かった.貴重なフィルムで1コマでも多く駅舎内や駅前の面白い風景を撮っておくべきであった。

山陽本線の車窓から見た倉敷市駅.
倉敷では観光名所も見ず直ぐに初めて井笠鉄道に向かう.
西大寺鉄道、下津井電鉄、井笠鉄道と山陽路にはいくつも軽便があった.

参考:鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション21 私鉄車両めぐり山陽・山陰

2017年3月28日火曜日

広島市内線 単車が走っていた街

150形、400形、450形の単車が活躍していた頃の広島の風景はこんなであった。

軌道線と鉄道線の接点 己斐(西広島)駅.1967.3.7

己斐(西広島)駅の400形404.中桟が入った側面窓のガラス.

己斐(西広島)駅ではこんなボギー車もいました.750形(元大阪市電)

己斐(西広島)駅の単車の先にあったのが鉄道線風景.かって単車450形も鉄道線に乗り入れたこともあったそうだ.

素晴らしき鉄道線の電車.

己斐から広島駅へ向かう400形

 土橋で分岐し己斐へ向かう400形、左に直進するとあの「江波」に向かう.  

単車で賑わう十日市分岐点の450形.

甲斐発宇品行きの400形、直進すると相生橋を渡る. 十日市町電停

2017年3月26日日曜日

広島市内線の単車

昭和42年3月の朝、広島駅前で市内線を初めて見た時、アクが強過ぎて強烈な印象だったのが150形単車であった。大きな丸みがあるオデコと屋根、これぞ戦前から活躍し戦災をくぐりぬけてきた広島の路面電車のイメージがしたものだった。
この時は余りに強い個性で関心が薄かった150形だが、最近、映画で話題となったあの「江波」の行先表示を見つけると俄然関心が湧いてきた。この時に活躍していた単車150、400、450形を改めて見てみようと思います。

映画「この世界の片隅に」ですっかりお馴染みとなった「江波」行き単車.
6系統150形155.広島駅前 1967.03.07
150形は全長が9mもあり単車の中で最も大きい

朝のラッシュ時に次々とやってきた単車.6系統 150形157 

7系統横川行き150形159

6系統150形156(江波車庫保存車) 十日市町

3タイプの中で最も全長が短い400形.魅力的なスタイルの単車で、拘りの映画に描かれたのはこのタイプだったのだろうか?  400と450は側面の窓が5つしかない。 

400と類似の450形

2017年3月24日金曜日

京王線初台駅の今昔

先日の京王線初台駅今昔の記事に関し、子供の頃に初台に住んでいた方から更に写真を送って戴きました。53年前(1963年)の初台駅とほとんど同じ位置で撮ったそうです。

写真を並べてみると、初台通りの商店街の道幅や、踏切遮断機といまの横断歩道の位置関係などほぼ符合しているそうで、オリジナル初台駅は相対式二面二線のはずで地下化工事期間中は写真で推測がつくように島式一面二線の仮ホームだったそうです。

水路上?に仮線された初台駅の下り線  1963.7.31.
1963年4月に新宿駅地下化が開業したが、新宿~初台はまだ地下化工事中で新宿~初台の地下化完成はこの1年後1964年6月7日であった。
初台駅の今と(昔).撮影:杉田様
ミタニビルそば屋(コクヨ店)、横断歩道(踏切)、初台通り、遊歩道(京王線下り線) 

京王線初台駅があったところの現在. Google Earth
京王新線の開通により地下京王線の初台駅は使われなくなり、京王新線に初台駅が設けられた。

ところで、この区間の地下化工事について鉄道ピクトリアル誌「京王電鉄1950~1960」によれば、用地買収を少なくする目的で旧玉川上水路用地と京王帝都用地だけを充当した工事で、地下京王線の工事工程順の図解がありました。

旧玉川上水路用地の上に仮線敷設したのが写真↓でこの後、仮線へ移動し本線の下に地下線を設けた。
文化服装学院辺りまで水路の脇を走るカーブが多い区間.1963年4月

甲州街道から文化服装学院の脇を走ると水路がある区間に入る.1963年4月

それにしても美しい電車が走っていた時代.デハ2150形 下高井戸 1962.12.7

2017年3月16日木曜日

昭和42年 伊豆箱根鉄道駿豆線

先日の伊豆箱根軌道線で1963(昭和38)年2月に廃止となった直後の鉄道線(駿豆線)大場工場で見た艤装中のモハ1000系のその後がその年の夏駿豆線 夏の新車でした。

そこから4年が経った1967(昭和42)年1月、田辺さんが駿豆線を訪問し沿線風景を撮っていました。
この頃の駿豆線は新車1000系を除いては旧国鉄の戦災車など旧国鉄の車両が大半を占めていた。モハ50形(50~59)、モハ60形(62、63)、クハ70形、クハ80形はどれも旧国鉄で1両1両に相違があるややこしい電車が富士を背景に走っていた。

1967.01.07 撮影:田辺多知夫氏

富士を背景に伊豆半島を走るモハ62(旧国鉄モハ31系)

富士を背景に伊豆半島を走るモハ50形(旧国鉄)

ED32(東芝車両製)が牽くこんな国鉄客車の乗り入れがあったのですね.

153系の乗り入れ.

1000系が最も美しかった時代.
昭38.西武所沢へ車体を自社発注した新型ボディの1000系 
新しい車体に古い台車の組み合わせがとても魅力的です.


以下は大場工場にいた車両のバリエーション.1963.2.22


 モハ50
モハ54
モハ57
 モハ58
モハ59
 モハ52
クハ72

あれから4年が経った軌道線のモハ205廃車体.1967.01.07

参考文献: 鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊 伊豆箱根鉄道 吉川文夫氏

2017年3月14日火曜日

昭和41年 よき時代の筑波線

常総筑波鉄道筑波線は昭和40年6月に鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道筑波線になり、その後、昭和54年に関東鉄道から分離して筑波鉄道となった。
1966(昭和41)年に田辺さんが撮った筑波線を紹介します。この頃は関東鉄道筑波線が正しい社名ですが筑波鉄道のラベルに入れてあります。
1966.10.10  撮影:田辺多知夫氏

愉快な国鉄乗り入れ列車が岩瀬方面へ向って走っていた.真壁 常陸北条

国鉄水戸線 常磐線からが筑波まで乗り入れていた列車ですね。
昭和34年5月、遠足で上野から乗った国鉄客車は土浦でディーゼル機が牽引して筑波駅へ向かった。あの時の列車はこんな小さな機関車であって、後の大型のDD501やDD502の牽引ではなかった。

美しい秋の田と機関車DC202 常陸桃山-真壁 常陸北条

筑波山麓でまだキハ303が活躍していた. 筑波-常陸北条

筑波駅のキハ303
筑波駅のキハ303

筑波駅のホハフ201

ホハフ201を挟んだ編成.真壁と思ったが構内線路配置から常陸北条ですすね.

 ホハフ201を挟んだ編成.キハ401+ホハフ201+キハ41005

キハ401   筑波-常陸北条


土浦駅の筑波線キハ41006

楽しい常磐線
常磐線土浦駅の風景