案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年4月24日金曜日

玉電用賀の今昔

田園都市線の用賀で降り地上に出ると、一変した用賀の街並みがある。
かってここに玉電が走り、この先の渋谷寄りに用賀の駅があった。
現在の道路の形状から、ここにあった玉電の軌道と大山街道の遠い昔の風景が浮かび上がる。
1960年代の世田谷用賀、今の街並みからは想像できないほど長閑な風景であった。


用賀 2015年4月
坂を下ったところに用賀の駅があり、道路に軌道と大山街道との合流地点の面影を残している。

写真上はこの辺りで、駅を出て踏切を渡り木立の脇をカーブする 1965.7.27

桜新町を過ぎ専用軌道区間の坂を下ると用賀に到着する 1969.4.22


用賀 1965.7.27

用賀を発車1969.4.22
桜の木の下に見えるのが駅前にあった「梅の湯」のようだ


踏切を渡り木立の脇をカーブすると大山街道と合流する 1965.7.27

踏切はこのあたりで、木立の跡に用賀駅東口があるビルが建つ  2015年4月


そして子供たちの遊び場だった用賀駅引込線の風景 1969.4.22
今だったら危険を感じて電車は止まるでしょうね

2015年4月21日火曜日

昭和37年の富山駅前

北陸新幹線開業で注目度が高まる富山。

JTBのゴールデンウィーク国内宿泊予約の伸び率(前年比)で富山が第2位だそうです。

今、富山は宇奈月温泉地区が人気を集めているようですね。

すでにアップ済みの「昭和37年の旅 通りすがりの富山駅」より1枚

昭和37年の富山駅前を全画面表示してみました。

昭和37年の富山駅前 1962.08.03

全画面表示 (横1000pix)

本ブログのモノクロ画像は全てpicasa3でトーン調整しています。

2015年4月17日金曜日

ベタ焼写真から 最後の山梨交通

甲府駅前の南口にあった小さなターミナルビルから発車していた山梨交通鉄道線。
昭和37年3月に父が撮ってきてくれた山交甲府駅のネガが行方不明で、残されていたのは小さなベタ焼の数コマであった。ベタ焼きからスキャンした不鮮明な画像から山梨交通を偲んでみました。

この写真の3か月後、1962(昭和37)年6月いっぱいで山梨交通鉄道線は消滅した。
この鉄道の情緒あふれる情景と魅力的な訪問記がRMライブラリー5 花上嘉成著に収められています。

甲府駅 1962年3月
2階建てのビル「山梨交通電車のりば」の中に入ると薄暗く狭苦しい2面のホームがあった.
廃線直前だがけっこう乗客で賑わっている

1形モハ3号
昭和4年雨宮製の妻面の感じが京王電気軌道151形に似ている.

ここに写った1形2両は雨宮製のステップが下がったタイプで、山梨交通の電車といえばこの1形がイメージされる。一方7形は1形とはイメージ異なる高床式で上田丸子へ転籍しその後江ノ電で改造されたことでよく知られている.

甲府駅を出発すると直角に曲がり鶴舞公園沿いの道路を走る.
日中は着脱式ヘッドライトを外していた

警察署前までさびれた通りの併用軌道区間を走る.


以下は山梨交通廃線後の7形2両のその後

   信越線と並走する丸子線に入線直後の赤い7形の姿があった.1963.7.20

元山梨交通7形が休む上田丸子電鉄別所線の下之郷駅 1970.8.17

山梨交通廃線から8年、詩情あふれる下之郷駅と元山梨交通の電車

元山梨交通7形のモハ2342+2341. 下之郷
留置されていた電車の写真をよく見ると山梨交通からやってきた高床式電車2両であった。
昭和38年に入線し改造後丸子線で使われ、この留置の翌年に江ノ電に譲渡され連節車となった。
山梨交通時代の7形とはすっかりイメージが変わったモハ2341. 下之郷


参考図書: RMライブラリー5「山梨交通鉄道線回想録」花上嘉成著 ネコ・パブリッシング発行

2015年4月14日火曜日

栃尾線 長岡駅構内配線図(訂正版)

昨年12月3日にアップしました昭和39年の長岡駅構内配線図は不明箇所の線路配置を推定で書いてその儘になっていました。その後、書籍やネット検索などでこの時代の証拠写真を探しつけ合わせて構内配線図を補正してみました。

特に不明であった奥の車庫(工場?)は、ここまで入って探索した人は殆どいなかったようで、線路配置の証拠写真となったものは数枚でした。車庫建屋をズバリ撮った写真は皆無で、車両の背景に写った建物の断片と線路形状から割り出し訂正した線路配置です。

昭和42年11月に車庫・車両工場が下長岡に移転するまで、このような車両工場で次から次と奇怪な車両が生まれて来たのが驚きです。まるで縮尺1/1の模型のような電車もあった。


訂正版 図をクリックすると原図の大きさになります.



前回の不明5箇所とその後判ったこと。

1. 国鉄側の貨物線の末端が不明
国鉄貨物線へ接近するこの1本の貨物線は途中で途切れるようだ。

2. ターンテーブル上の線路の末端が不明
このテーブル上線路の先は行き止まりになっている。

3. 元小坂古典客車がいた留置線の先が不明
この引き込み線は給水塔の脇を奥の車庫内につながっている。

4. 車庫の悠久山側の線路配置が不明
手前側扉の外へ出てくるのは1線のみ。

5. 遠くに電車が見える奥の車庫(工場?)の悠久山側が不明
奥の車庫の悠久山側は分岐した2線が庫内に入っている。


奥の車庫(工場?)の悠久山側

2015年4月12日日曜日

ガールズ&水浜電車

水浜線風景 ガルパンの聖地大洗 に東石川さん、コメントをありがとうございました。

リンク紹介があったガールズ&水浜電車のYouTubeをここに掲載させてもらいます。

ガールズパンサー戦車道と遠い昔の水浜線がなんと今こんな形で結ばれるとは !

水浜電車も注目されて幸せですね。

大貫停留場からスタートした茨城交通水浜線の全記事はこちら











2015年4月11日土曜日

今夜のNHKブラタモリ「長崎」

今夜のNHKブラタモリ「長崎」で現在の長崎電軌石橋駅が出てきました。今は石橋駅と軌道が川の上にあるのですね。早速、ブログで長崎電気軌道を開き昭和42年に撮った長崎電軌 大浦支線で石橋駅と大浦石橋通りを確認したところ、この頃はまだ軌道や駅が道路の上にありました。その後道路上の路面電車を川の上に追い出したのでしょう。

昭和42年の大浦石橋通り

昭和42年の終点石橋駅




2015年4月7日火曜日

歌川模型店 (記事リニューアル)

吉祥寺ハモニカ横丁にあった歌川模型店を本ブログで紹介したのが2012年4月25日。
昭和の雰囲気を残しながら目まぐるしく変貌していくハモニカ横丁。
懐かしい歌川模型店があったハモニカ横丁のその後を追加しリニューアルしてみました。


歌川模型店の写真は店じまい直前の2005年3月であれから10年が過ぎた。
2012年にブログで紹介した時は、歌川模型店や民芸酒蔵「峠」がついこの間まで存在していた感じだったが今になると遠い昔のことに思えてくる。それだけハモニカ横丁が年々変貌しているせいだろう。全てを壊して新しくするのではなく、昔ながらでも活きの良い店は生き残り、新業態の店が次々新陳代謝していくハモニカ横丁。こんな混沌とした活気ある横丁が人々を惹き付けている。

懐かしさ満点の歌川模型店は懐かしさがウリだけでは生き残れなかったのでしょう。ハモニカ横丁を象徴するような店だったので残念です。

歌川模型店があったところは「塩トマトラーメン店」から「やきとん酒場」に.2015.04.02

歌川模型店があったところは「塩トマトラーメン店」に. 2012年11月

歌川模型店近辺の「みんみん餃子」や隣の店(果実の看板)は今も残る.  2005.03.03

昔ながらの歌川模型店.  2005.03.03
ショーウンドウには子供の頃に憧れた3線式0番模型などが並んでいた.


みんみん餃子の通りの今. 2015.04.02

民芸酒蔵があったところは新業態の今風の店に.2012年11月

この角に民芸酒蔵「峠」があった. 2005.03.03


10年前の入り口から見た通り全体. 2005.03.03
この奥に歌川模型や民芸酒蔵峠がまだあった時代

2015年4月2日木曜日

下北沢駅の今

東京郊外の桜も今日が最後でしょう。
井の頭線に乗って下北沢駅の現状をちょっとだけ見てきました。

下北沢の地上駅が地下に切り替えてから早や2年、その後どんなになったことでしょうか。
地下2階の各停用ホームの工事が真っ盛りのようで地上駅の跡地は今も工事現場であった。
そして駅前の戦後のアーケード街は見るたびに取り壊されて行く。

富士見ヶ丘 - 高井戸 2015.04.02

高井戸駅を彩る神田川の桜

高井戸 - 浜田山

いかにも私鉄らしい井の頭線の島式ホーム 浜田山


下北沢駅のホーム脇あった踏切の跡はひっそりとしている.

井の頭線のガード下にあった下北沢駅ホームの跡地.

今も一部が営業している下北沢アーケード街

取り壊した空地に懐かしい店舗が1軒

何年も何年も時間かけた地下化の大工事が終わると下北沢の地上風景も大変貌することでしょう。