案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年8月26日水曜日

日本人が初めてみた蒸気機関車(模型) 1

嘉永7年(1854年)ペリー艦隊横浜来航時に横浜に持ち込まれた蒸気機関車は1/4の大型模型だが日本人が初めて見た蒸気機関車となるでしょう。この時の蒸気車の絵はあまりにも有名ですが、その原本となるのは現場で写生した絵(色なし)で、それを元に色付け加工した模写がいろいろ出回った。下の絵↓も色付けされた模写と考えられる。

蒸気車 四分一雛形之縮図

蒸気機関車の大型模型は、嘉永7年(1854年)2月15日にほかの品々とともに陸揚げされた、そして翌16日、横浜村に設置された敷地にレールが敷かれた。その後、23日に幕府応接掛や多くの日本人の前で運転が行われた。*2松代藩藩士 樋畑翁輔の*1遺稿を冊子にした「米国使節彼里提督来朝図絵」に汽車模型として描かれており、上の絵は樋畑翁輔が描いたものを模写したと考えられる

上の絵と解説要約は真田宝物館の冊子「松代藩と黒船来航」による。

 樋畑翁輔の遺稿を元に息子樋畑雪湖が編集し、昭和5年に上梓された冊子が「米国使節彼里提督来朝図絵」で収納された絵(印刷)は全て白描画(色彩を伴わず筆線のみで完成された絵)である。

 樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」に収納された蒸気車の絵(白描画)

 樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」昭和 5年上梓
ペリー来航時に日本で初めて見るものが多数白描画で記録(印刷)されている。

では樋畑翁輔の遺稿とは? →これを明らかするために松代の真田宝物館


*1遺稿: 未発表のまま死後に残された原稿のこと。
*2ペリー来航時の松代藩の二つの役目  
   1.横浜応接場の警衛。 
   2.松代藩の二人の絵師を参加させ当時の状況を克明に写生画に遺した。

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