案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年7月29日水曜日

駿遠線 謎のDB機関車605

私は「蒙古の戦車」の中でDB605の姿は見たことがないのですが、昔の鉄道ファン誌に紹介されたバック運転のDB605の写真を知り、中村修 著 「駿遠線物語」の中あったDB605の写真を改めて見てみました。前後ともに山型ボンネットの特徴あるスタイルです。

驚くことに、このDB605イノシシ機関車はなんと豚と衝突して川に転落したそうで、この時の写真を見るとひっくり返ったDBは前後が山型ボンネットでDB605であることが判ります?  その後、このDBの部品は他機に使い回しされたそうで相良で見たDB606はこのDB605と外観上の共通点がいろいろあります。(豚衝突転落事件とその後の部品使い回しの関係は不明)

ところが、DB606はそれとは別に藤枝に変わったDB606がいました。これは赤穂鉄道から来た元CタンクのDB化で駿遠線DB機関車の中で唯一自社工場ではない機関車だったようです。

豚と衝突したあと部品が使い回しされたDB605、そして2タイプいたDB606、これらの関係はよく判っていないようです。


中村修 著 「駿遠線物語」袋井工場物語の表紙にあったDB605の写真.

単端式なのにバックギヤ運転で大手線を走ったことがある機関車、豚と衝突して川に転落した機関車など逸話溢れるDB605。その存在はある時点で消えてしまったのでしょうか。

1966年9月 相良で見た最後の姿DB606.  前
前側ボンネット形状を除きDB605とDB606には共通点がいろいろ見つけられる.


1964年3月 藤枝で見たDB606.
相良にいたDB606とはキャブの形状、動輪形状、タンク位置など外観が明らかに異なる.

どの凸型機関車も一体どちらが前なのか?よく判らなず、特にこの機関車は判りにくい。
運転手の出入り口、計器の位置などからすると、こちらが前なのでしょう。
どの凸型機関車も前面と後面で機関車の表情がかなり異なり、写真を付け合わすときに厄介である。

2015年7月27日月曜日

北陸鉄道能登線 羽咋

北陸鉄道能登線の羽咋(はくい)を初めて訪問したのは1962年の真夏であった。
それから10年後の1972年3月に先日の雪の羽咋を撮った田辺氏と青蛙氏が訪問していた。
よく考えてみれば私が国鉄能登線のC11「おくのと号」を撮って能登金剛へ行ったのも同じ年1972年の9月であり、北鉄能登線の廃線(1972年6月)直後の三明と羽咋をクルマで素通りしていた。
その頃は羽咋といえば観光「なぎさドライブウェイ」で北鉄能登線がまさかそんな時代まで走り続けていたとは全く知らなかった。

地方私鉄ムードあふれる北陸鉄道能登線羽咋駅の佇まい. 1962.08.02
キハ5162、キハ5001、キハ5151が見える

羽咋構内にあった車両小屋.構内で休む車両は個性派ばかりであった.

こんな単車コハフ1501に乗って夏の日本海海岸線へ向かった.

小屋から出てきた小さな気動車キハ5001が給油し発車の準備をしていた.

羽咋を出発した列車は海水浴客で超満員、国鉄七尾線と並走する.  1962.08.02
キハ5162+コハフ1501

鉄橋を渡り左にカーブして七尾線をオーバクロスして日本海へ出る.


そして10年後、日本は"Discover Japan"の時代
以下の3点は、先日の田辺氏撮影の雪の羽咋駅.1972.03.04
"Discover Japan" 羽咋を発車する国鉄七尾線のふるさとSL列車C58「おくのと号」

輪島へ向かう七尾線C58「おくのと号」そして右に北鉄能登線の線路.

1972年6月に廃線となった最後の年の北鉄能登線 羽咋構内
元遠鉄二俣線キハ803であったキハ5213. 赤い気動車3両の1両.

2015年7月22日水曜日

駿遠線 袋井工場で見たDB機関車

駿遠線の蒙古の戦車は背がラウンドした蛙のようなDBが良く知られている。それ以外の無骨で産業用機関車のような細身ボンネットをキャブ前後に配したタイプは、僅か数年で外観が変身したものもありその変遷は大変ややこしい。難解なDB605、606は後にして袋井工場で初めて見たDB機関車を数年後の写真と付け合わせてみました。


初めて見たDB機関車は厳めしいこれぞ「蒙古の戦車」  この時番号を見落とした.
 袋井工場 1963.04.04

ドアにはDBの番号が表示されていない.
背後に数々の自社工場製車両を生み出した袋井工場の野武士たち.

前進側の細身のボンネット・ラジエータ

1963(昭38)年の袋井工場


相良で見たDB601.  1966.09.23
袋井で見たDB(1枚目写真)はその後ボンネット形状(前側)が全く変わってしまったDB601であった.

左からDB602 DB601 DB606  相良  1966.09.23
堂々としたDB606に比べるとDB601は意外に小ぶりであった.
このDB606がくせもの

2015年7月20日月曜日

ある日の水浜電車 昭和41年

素晴らしき水浜電車、昭和41年ある日の名場面を田辺氏のアルバムから。

撮影: 田辺多知夫氏 1966年5月

何も説明がいらない感動の一場面. 大串

田んぼを行く路面電車.六反田付近

 涸沼川橋梁を渡る. 平戸-磯浜

海辺に近い曲松停車場

場所不明

大洗磯前神社鳥居の脇で線路が終わる. 大洗

2015年7月18日土曜日

東武日光軌道線 ED602の今

元国鉄ED4010に復元された東武日光軌道線ED602の今を大宮鉄道博物館で改めて眺め、ノーマル電機E611の貨物列車が走っていた風景をこのバケモノ電機ED602に置き換えて当時の日光街中の光景を想像してみました。

元国鉄アプト式に復元され展示中のED4010. 大宮鉄道博物館 2015年7月

日光軌道線の降坂では運転室のない第1端側を前面にして降りてきた. 

銘板下の小さなステップに案内人が乗った.
日光軌道線では登坂時に運転室がある第2端を前に推進押上げ、降坂時に運転室のない第1端側を前に牽引という運行であった。

廃線間近の頃、ED611が牽く貨物列車が日光駅へ下る風景. 1967.12.21 撮影:田辺氏

屋内展示のせいでよけい巨大に見えるこんなバケモノ電機ED602が観光都市日光のど真ん中こんな風景を昭和30年頃まで走っていたことになる。もしこれが今走ったら大変な生きた文化遺産、観光資源になることでしょう。

日光軌道線では運転室がある第2端を前にして推進押上げていた.

外されていたラック台車が元のかたちに戻された美しい下回り.

昭和30年頃まで活躍したED602.ロッド駆動のサイドビューが魅力的. 清滝電車区 撮影:青蛙氏

参考: RM LIBRARY 第148巻 国鉄アプト式電気機関車 小林正義 著 ネコ・パブリッシング発行

2015年7月17日金曜日

鉄コレが取り上げた 秋田中央交通軌道線 

トミーテックの 鉄道コレクション10周年記念製品の第一弾として秋田中央交通軌道線のデワ+ナハフ1両がセットになって11月発売予定とのこと(宵闇さん情報)。これは驚いた。

残雪がある田んぼを五城目に引き返すデワ+ナハフ.  八郎潟 1966年3月
  
ナハフ10 五城目

2015年7月14日火曜日

遠州鉄道二俣線 真っ赤な気動車の今

国鉄キハ41307   大宮鉄道博物館 2015年7月



遠州鉄道二俣線にいた「真っ赤な気動車」3両の内の1両キハ802が鉄道博物館に展示保存されるまでの数奇な運命は「真っ赤な気動車のその後」 で紹介した通りです。再度その経緯と鉄道博物館の今を写真で追ってみました。

国鉄キハ41307遠鉄二俣線キハ802→1967年 北陸鉄道能登線キハ5211→筑波鉄道キハ461(1985年廃車)→さくら交通公園保存→2007年鉄道博物館 国鉄キハ41307に復元

遠州鉄道二俣線「真っ赤な気動車」キハ803 (801 802と同系)  西鹿島 1964.03.25
新浜松から国鉄二俣線遠江二俣まで直通運転していた時代


北陸鉄道能登線へ転出後のキハ5211   羽咋 1972.03.04

国鉄七尾線羽咋駅の左端に能登線ホームがありキハが発車を待っている.

雪の能登海岸沿いへ向かうキハ5211  以上モノクロ4点 撮影:田辺氏
(北陸鉄道能登線1972年6月廃線)


筑波鉄道で最後を迎えたキハ461  1987.03.14
(筑波鉄道1987年4月廃線) 

今、鉄道博物館に展示されているキハ41307はごくありふれた国鉄04形気動車だが、車内に座って国鉄払下げ後ここへ来るまでの歴史・・・電化線を走った遠鉄時代、能登の荒海沿いを走った時代、春の筑波山麓を走った時代・・・などを思い浮かべてみると車内を見る目も変わってくる。

2015年7月10日金曜日

尾花沢線 花笠音頭の尾花沢 (リニューアル)

DB151に牽かれて大石田へ向かう列車. 尾花沢市外 1964.08.05
西部に出羽山脈が連なる尾花沢盆地を大石田と尾花沢を結ぶ。全線2.6Kmをゆったりと走り尾花沢に8分ほどで到着する。

ポプラと駅舎と列車、風情ある尾花沢駅の佇まい.
ハフ1(元有田鉄道)+ワフ1+DB151





空に浮かぶ白い雲、夏の日照り、セミの鳴き声、列車が発車すると構内は静まり返る。構内にいた車両は数両で撮影もあっという間に終わってしまい、列車で引き返そうとしたが本数なくバスで大石田に戻った。尾花沢には沢山のバスがいて大石田までバスが並走する小鉄道がその後6年もよくぞ存続できたものである。

この時代はどこへ行っても夏の炎天下での撮影がたいして苦にならなかったのは今の異常な夏と違ってまだ優しい日照りの時代だったのでしょう。ネガに写った陰影が柔らかなような気がする。


立派な駅舎を駅前に出るとキャブオーバ式バスが待っている.

花笠音頭で有名な尾花沢の玄関口がこの尾花沢駅であった。駅前にはバスターミナルがありここから各方面にバス網が発達していた。今もバスの拠点はここにあるようで駅舎は地元スーパーになったようだ。もう東京では見られなくなったキャブオーバ式バスがたくさんいて、銀山温泉に向かうにはここでバスに乗り換える。8月のお盆シーズンであったが「花笠おどり」の開催はもう少し先のようであった。

 楽しい夏休み真っ盛りの子供たち (駅の部分拡大)
尾花沢玄関口の賑わい。

給水タンクと給炭設備が残っていた一角.
蒸機は日車製Cタンク機が昭和34年まで在籍していた。
日車製Cタンク機が元飯山鉄道1~3と同形機だったとなると、日本ニッケル3号機(元飯山)と兄弟であり、こんなCタンク機が尾花沢線の風景を走っていたことになる。

大きな機関庫がありここを使った蒸機は開業時のポーター製Cタンク2両、
その後の日車製Cタンクなどでしょう。


以下車両写真

ハフ3 昭和31年西武所沢工場製 
地方に転じた元西武多摩湖線の101系(モハ、クハ)を各地で見掛けた.


ハフ2 昭和11年日車製 元神中鉄道のディーゼル動車.

ワ14

参考: 鉄道ピクトリアル 臨時増刊私鉄車両めぐり(第2分冊) 鉄道図書刊行会 1962年