案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年9月3日火曜日

遠鉄奥山線 最後の日-1

東海道新幹線が開業したのが1964(昭和39)年10月1日。
東京オリンピック開催が10月10日~10月24日。
この月の31日に遠州鉄道奥山線は最後の日を迎えた。この日の奥山線のネガは朝一からスタートしていたので、開業したばかりの新幹線は利用せず毎度の鈍行夜行列車で浜松に早朝到着したのでしょう。人がまだ少ない朝一から撮り始め、まずは国鉄二俣線との並走区間を狙った。

最後の日を迎えた朝の曳馬野駅. 1964.10.31

 気賀口からやって来た朝の上り列車. 曳馬野

今日のお別れ列車で朝はこんな編成であった.都田口

都田川橋梁を渡る朝の上り気動車. 祝田-金指

国鉄二俣線の立派な線路と並走する奥山線の狭いせんろ. 岡地-金指  1964.03.23

二俣線との並走区間を行く奥山線. 岡地-金指  1964.10.31

国鉄二俣線と奥山線のすれ違い

煙の向こうに国鉄線をオーバークロスした奥山線の列車が小さく見える.

国鉄二俣線C58の旅客列車

奥山線最終日のお別れ列車. 金指 1964.10.31

2 件のコメント:

伊豆之国 さんのコメント...

奥山線の沿線を訪れたのは、これまでに2度。最初は今から15年前の冬休み。舘山寺温泉の宿を朝に出て、当時あった「奥浜名湖めぐり」の観光バスで、終点だった奥山にある名刹・奥山方広寺や、竜ヶ岩(りゅうがし)洞、気賀にある「姫街道」の復元された関所などを回ってきていますが、さすがに奥山線の「痕跡」はよくわかりませんでした。その次は、9年前だったかの「浜名湖花博」への道筋。浜松城を見た後、すぐ北側を通る「家康の散歩道」という遊歩道。それが奥山線の廃線跡だったのでした。程なくしてトンネルに入り、入り口には車輪のモニュメント、中の壁には奥山線の写真が飾られていました。遊歩道はその先、「三方ヶ原合戦」の史跡として残る「犀ヶ崖」の近くまで続いていました。それから名物の「鰻」をご馳走してから「花博」を見て、翌日には豊橋から天浜線に乗り、三ヶ日での途中下車を挟んで西鹿島から浜松に戻っています。金指駅の近くに残る奥山線が天浜線をまたぐ高架橋の残骸は、今も強烈な印象を残しています。
浜松市は、浜北市・天竜市など周辺市町村を合併して80万都市に膨れ上がり、奥山線も現役の西鹿島線も沿線は全て浜松市内になってしまいました。今思えば、奥山線はせめて電化されていた区間だけでも、電化と同時に西鹿島線やJRと同じレール幅に広げていれば、沿線も完全に宅地化されているので、西鹿島線と同様に浜松市の通勤通学路線として大いに繁盛していたであろうと惜しまれます。奥山線には「小豆餅」とか「銭取」など、三方ヶ原合戦の逸話に由来する珍名駅があって、今も近くのお菓子屋さんで「小豆餅」「銭取」という和菓子が作られているそうです。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
私も曳馬野から奥山まで奥山線の廃線後を訪問しましたが、早いものであれから13年も経っていました。都田口を過ぎ三方原台地を下るあの自然豊かな一帯が大住宅地や変電所設備に変貌していたのには驚きました。その後も更なる宅地開発が進められていることでしょう。

奥山線廃止の頃の遠州鉄道は社史などからバス事業や36鉄道線が随分しっかりした会社に見受けられました。バス事業や36鉄道線に較べ軽便の奥山線はあまりにも時代遅れだったのでしょう。
奥山線営業廃止式典の日に開通した奥山線代替えバス路線45番が50年後の今も残っているのは意外です。マイカー時代になっても50年間このバス路線を走り続けてきたのですね。