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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年5月21日火曜日

小田急電鉄 NSE登場の頃

新特急車NSE3100形は第1編成が1963(昭38)年1月、第2編成が2月にそれぞれ完成し、社線での試運転、各種試験測定を経た後、2編成が3月から営業開始したそうだ。
1963年2月に沿線や経堂車庫で撮ったNSEを見てみると、確かに営業開始前の「試運転」が表示されていた。この頃、NSEの登場を見に経堂車庫に駆けつけたのだが、先代SE車が登場した時のような衝撃はなく、さらに先代の特急1700形から続いた私の小田急特急への憧れはSE車で終わっていた。

デビュー前に試運転で登場したNSEの11連.祖師谷大蔵-千歳船橋 1963年2月

一面畑だらけの世田谷を新特急車が走る.祖師谷大蔵-千歳船橋

丁度この頃、黄と青の塗り分車が1600形から登場した.祖師谷大蔵-千歳船橋

1400形 祖師谷大蔵-千歳船橋

経堂車庫に登場した新特急車NSE3100形.  1963年2月

今になってみるとレトロ感溢れるデザインなんですね.

3扉化された特急格下げ1700形 経堂車庫 1963年2月

御殿場線乗入れキハ5000形  経堂車庫

1400形  経堂車庫 1962年9月

ED1040形  経堂車庫 1962年9月

ED1010形

4 件のコメント:

Tosi さんのコメント...

NSE3100形が登場した頃には国分寺崖線を降りなくとも小田急の線路沿いにまだこんな光景がみられる場所があったのですね。私はこの時代の記憶がないので推測するしかないのですが、1963年二月に祖師谷大蔵-千歳船橋間の線路沿いでこのように多くの農地が残っていたのは、ちょうど環状八号線の予定地付近だったのではないでしょうか。
喜多見駅北側のかつての第一勧銀の西側のほうにあたる敷地が1960年代はじめには芋畑だったということも katsu様のブログに教えられるまで知らなかったのですが、これらのお写真もまた、資料的に貴重というばかりでなく、なにか望ましい未来を示唆しているような気がします。人口の減少にあわせて、市街地の集約、コンパクトシティ化が進捗していけば、たとえば今世紀後半頃には世田谷区の大半が農地や緑地、あるいは太陽光発電施設等で占められるようになっていても、必ずしも不思議ではないのではないでしょうか。

chitetsu さんのコメント...

撮影場所を拝見して驚きました。
恐らく親の実家のすぐそばなのだと思いますが、環八高架化前がこんなだったのは物心つきはじめの私の記憶には残っておりません。
母親が千歳船橋からの帰路、今の環八辺りは何もなく、夜は怖かったと言っていたのを思い出しました。
たまたま弊ブログも本日のネタは小田急線旧塗装の話題です。

katsu さんのコメント...

Tosiさん
私も同じようなことを想像していました。遠い未来には人口減少で過剰な複々線が複線に戻され、余剰となった線路沿いスペースに緑が植えられるのではないかと。
中学高校と通学していた頃、毎日見る祖師谷~千歳船橋あたりの風景は畑が拡がる印象しかありませんでした。その最たるところに今の環八を作ったのかも知れません。
この辺りで撮った写真は小田急でもつまらない沿線風景と思っていたのですが、50年も経つと次第に意識が変化して来るものなんですね。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
今の環八あたりはほんとうに何もありませんでした。帰りの電車で西日を浴びた殺風景な車窓が瞼に浮かびます。
電車より何でその風景を撮らなかったのかここでも悔しい想いです。東京の風景は撮る価値なしと思っていたのですすが、地方を撮りに行く前に足元東京の風景もまた宝の山の時代だったのですね。
本日の「かぼちゃカラー」拝見しました。ツートンの小田急カラーは懐かしいですね。白一色になってからは電車に小田急らしさが無くなってしまったようです。