案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年12月28日金曜日

関東鉄道常総線のこと

東京に近い非電化私鉄、関東鉄道常総線には未だに撮りに行ったことも乗ったこともないが
何かのついでに撮ったことがあった。時代により鉄道名は変化し、その経緯を調べてみると、

1945年 常総鉄道と筑波鉄道が合併し常総筑波鉄道となる。
1965年 常総筑波鉄道と鹿島参宮鉄道が合併し関東鉄道となり
 常総線、筑波線、鉾田線、竜ヶ崎線があった。
1979年 関東鉄道から筑波線、鉾田線が分離独立して筑波鉄道、鹿島鉄道となり
 関東鉄道は現在の常総線と竜ヶ崎線になった。


関東鉄道常総線の大田郷 黒子駅  1970.05.24

大田郷 黒子駅
地元では『内山街道』と呼ばれる古河・下館(県道124号)線を車で走ると大田郷駅近くで踏切を渡るが、列車に出会うことは滅多になかった。たまたま来た列車を撮ったようだ。かって隣の大田郷駅から常総関本まで砂利採取線の鬼怒川線が1964年まで走っていた。


左側に貨物線と駅本屋がある。


同行者の田辺さん(故人)が同じ駅を撮った2枚の写真。

大田郷付近をのんびり行く  1970.05.24

常総筑波鉄道常総線の取手駅  1962年3月
寒々とした風景で、駅には蒸機時代のなごりか水タンクらしきものが見える.
常総ニュータウンの建設開始が1971年で、東京通勤圏時代の到来はこのずっと後になる.

5 件のコメント:

moro9 さんのコメント...

取手駅の俯瞰、陸橋の上からと拝察します。
私もあの時代、駅の構内で撮影しておりましたが、
俯瞰撮りは気付きませんでした。さすがです…
腕木信号と給炭台、給水塔など模型にしたいレイアウトです。
留置されている貨車群が鉄道が地域輸送に密着していた時代を物語っています。
goodなショットです

katsu さんのコメント...

moro9さんもこの時代の取手駅を撮っていたとは意外です。
私はカメラを買ってもらった直後の常磐線沿線私鉄めぐりでしたが、
moro9さんはそれ以前から撮っていたのでしょう。
この時代の地方私鉄めぐりは、あと数年早かったら凄い光景が撮れたでしょうね。

風旅記 さんのコメント...

こんにちは。
貴ブログのタイトルの通りに、1960年代の地方私鉄は独特な魅力に溢れていたのだろうと思います。
今の常総線の整った車両からは想像がつきませんが、様々な経歴の多様な気動車が走っていたのでしょう。そこには、鉄道の原風景のような姿があったのではないでしょうか。
たまたまですが、2010年に大田郷駅を撮影していました。今は静かな駅ですが、往時には人影多く、鉄道が多くの人に使われていた様子を、お写真から感じ取りました。駅の周りの風景も、様々変わっているのでしょう。
今を走る鉄道の風景が、半世紀前の姿の延長にあると思うと、不思議な気持ちになります。
貴重なお写真、楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

匿名 さんのコメント...

大変興味深く拝見しました。
1~2 枚目の写真ですが、昔の大田郷駅はびっくりするくらい現在の黒子駅と雰囲気が似ていたんですね。

katsu さんのコメント...

匿名さん
ご指摘ありがとうございます。
鉄道誌や写真集に発表されている大田郷駅の断片写真や、ピク誌の構内配線図を付けあわせてみると
この写真が大田郷とすると当時の駅本屋の位置(東側か西側か)に矛盾が出て来ました。
当時の駅本屋が西側にあるのが大田郷駅で、東側にあるのが黒子駅のようです。

両駅の構内配置がよく似ているので大変厄介な作業ですが、
ブログ掲載写真は下館側から撮ったとすれば? 左手東側が駅本屋になるので黒子駅のようです。
改めて調査結果と訂正版をアップさせて戴きたいと思います。
ありがとうございました。