案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年9月20日木曜日

井の頭線 吉祥寺駅

2010年4月に着工した京王吉祥寺駅ビルの建替え工事も早や2年半が過ぎた。
完成は2014年3月予定とのことで、最近は駅北口や中央線から井の頭線へ向かう連絡通路が迷路のようになって駅ビル建替え工事も佳境に入っている。

工事着工前の駅のこんな「今日の1枚」を良く撮っていたが、工事で良い撮影ポイントがなくなって最近はすっかり撮らなくなってしまった。駅ビルの完成で井の頭線のホームはそう大きく変わることはなさそうだが、時代の空気は少しずつ変化していく。駅に漂うそんな時代の空気を撮り続けてみたいものである。

週末の夜の吉祥寺駅 2009.01.31   クリック拡大


姿を消した3000系   2009.01.31

昼下がりの私鉄ターミナル駅  2008.04.11

2012年9月18日火曜日

西国立にあった立川機関区とED16

南武線の西国立駅の脇にあった立川機関区。1963(昭38)年に立川機関区を訪問した目的は0番模型でお馴染みだったED16を撮影することであった。

ED16は、1931(昭和6)年から18両製造され中央線や上越線で活躍し、一部は関西の阪和線にも配属されたが1970年頃までに全機が立川機関区に集結したそうで、青梅線・南武線で活躍していた姿をよく見掛けたものだった。
奥多摩で採掘された石灰石を浜川崎(第一セメント、日本鋼管)や高麗川(第一セメント)まで運ぶ 日本の基幹産業(セメント・鉄)を支える重要な輸送ルートが青梅線・南武線そして八高線であった。
この石灰石輸送列車の牽引を担ったのがED16で、1970年の青梅線奥多摩~南武線浜川崎間では
1日10本も運転されていた。(運転本数はRMライブラリー 鶴見貨物線回顧より)

ED16引退のお別れ列車. 東青梅-河辺 1983.03.20  ED16は3月27日で廃止となった

昭和38年の夏休み明け9月の日曜日、休日の川崎工場地帯の専用線めぐりを国鉄電機撮影に急遽変更し渋谷から西国立へ向かった。事務所におことわりすると簡単に許可が下り、この日のED16とED27の運用を詳しく説明して頂いた。それにしてもこの立川機関区の人達は皆親切で実にありがたかった。

南武線西国立駅の脇にあった立川機関区.  1963.09.08
現在この辺りには巨大なマンションが立ち並んでいる.
南武線西国立駅の脇にあった立川機関区

ED1616

庫内に休むED16群



2時間ほど待ってやっと帰って来たED2714.南武鉄道向けに4両製造された日立製電機




ED2714とED167



親切にして戴いた機関区の皆さん

2012年9月16日日曜日

秩父鉄道 熊谷駅の古典電機

東武熊谷線のブタ鼻気動車がいた熊谷駅ホームの向こう側が秩父鉄道で、そこには現在の電機デキ300やデキ500などよりずっとバラエティに富んだ楽しい古典電機がいた。行っておいてよかったこの時代の秩父鉄道。この1回しか行ったことがない秩父鉄道。
(車両の解説は秩父鉄道-Wikipediaから引用)


クハ600形+デハ500形 と ED381     熊谷  1965.05.30 クリック拡大

デキ7  1977年廃車
1925年(大正14年)、秩父セメント(当時)秩父工場の操業開始に合わせてイギリス・イングリッシュ・エレクトリック(デッカー)で製造されたデッキ付き箱形B-B機。同型車は東武鉄道(ED10形)にも存在した。

デキ3  1984年廃車

デキ1 1988年廃車
1922(大正11)年に同鉄道が電化されたことにより、それまで蒸気機関車に頼っていた石灰石輸送を電気機関車に転換するため、デキ1 - 5の5両がアメリカのウェスティングハウス・エレクトリックで製造された.

ED381  1988年廃車
日車1930年製で阪和電気鉄道ロコ1000形として製造され、国有化後1952年に改番されて国鉄ED38形電気機関車となり、1959年に秩父鉄道へ譲渡された。

デキ102
秩父鉄道デキ100形電気機関車は、第二次世界大戦後に日立製作所が日本各地の私鉄や専用線に供給した50t級電気機関車の一つで、デキ101、デキ102 - デキ106、それにデキ107・108の3グループに分類される。

デキ201.  非電化国鉄八高線と並走する石灰石輸送列車
東京オリンピックの前年1963(昭38)年の建設ラッシュでセメント需要が増加したことから3両(デキ201 - 203)を日立製作所で新製した。デキ100形に較べモータ出力を増強。車体はデキ100形と同様の前面に貫通扉を設けたデッキ付きの箱形車体であるが、丸みが増して前面窓が上下方向に小さくなり、窓上にヒサシがついた。また前照灯が2灯になって大型のライトケースに納められている。

2012年9月12日水曜日

東武熊谷線のブタ鼻気動車

東武熊谷線の気動車キハ2000形は1954年東急車両製造で熊谷線向に3両が製造され当初はコバルトブルーとクリームの塗分けだったそうだ。数年後これとほぼ同型車が東急車両製造で加越能鉄道向けに2両製造され、これが鹿島鉄道へ転出しキハ431と432になっている。
1981年廃線間際に見たあの熊谷線のキハ2000形は、魅力溢れる鹿島鉄道の金太郎塗りキハ430形に較べ何であんなにブサイクだったのか?
熊谷線キハの1965年と1981年の違い、そして鹿島鉄道のキハと比較してみました。

東武熊谷線キハ2003  熊谷 1965.05.30  クリック拡大
熊谷線と秩父鉄道羽生方面行のホームがつながっている.
美しいヘッドライト、そしてツートンカラー(当時の色は不明)、
鹿島鉄道の金太郎塗りキハ430形に劣らない魅力溢れた時代があった.

ブタ鼻ヘッドライトに改装後のキハ2000形  妻沼  1981.07.17
1970年代中頃に塗装がクリーム一色となる.
やはりヘッドライトとカラーリングで車両イメージは一変してしまう.


美しい鹿島鉄道キハ430形
鹿島鉄道 キハ432+431   2007.03.31

鹿島鉄道 キハ431 2007.03.08

鹿島鉄道 キハ431+432   2007.03.31    クリック拡大

2012年9月11日火曜日

小山の扇形機関庫

コメントを戴いた「ゆうちゃん」が撮られた小山の扇形機関庫の写真を使用許可いただきここにアップします。
私にとって小山機関区があったこの時代は大変懐かしく1970(昭45)年の私の記録を調べてみると、1970年6月30日に小山のC50が最後の日を迎えています。ちょうど小山市内に住んでいたのでこの日のことは忘れられず、夜遅く雨音と伴に悲しい最後の汽笛(構内作業)が自室まで良く聞こえたものでした。

その後蒸機に使われなくなった扇形機関庫はしばらく電機や入換作業用DLに使われていたようです。
この扇形機関庫の写真が撮られたのは1970年1月4日で小山のC50廃止の6ヵ月前ということに。
この写真のちょうどこの頃、機関区の人に招かれて踏切そばの扇形機関庫裏手の門扉から小山機関区の内部に入った事が思い出されます。残念ながら扇形機関庫は何も撮っていなかったので、私にとってこの写真は貴重で懐かしく小山時代が想い起こされます。

小山の扇形機関庫 撮影: ゆうちゃん  1970.01.04  クリック拡大
1970年6月30日に扇形関庫の主C50が最後を迎えた。


昔の航空写真から小山機関庫のおおよその配置で 扇形格納庫は13本あった.
線路配置はイメージです.

2012年9月9日日曜日

小山のC50

北関東の交通要所小山に水戸線、両毛線の小山機関区があった。
小山機関区にはC50を主にD51や両毛線C58や真岡線C12なども居たようだが
1970(昭45)年頃には構内入換え用のC50だけになってしまったようだ。
小山には扇形機関庫があったが扇形機関庫は東京近辺でも見られ珍しくもなく、
何も撮ってなかったのが悔やまれる。

水戸線の列車とC50108. 小山  1970.05.24   クリック拡大
左手東北線と水戸線の間から扇形機関庫へ線路が延びていた.

C50154  背後は両毛線

貨物ヤードがやたら広かったようだ.

2012年9月6日木曜日

鹿児島市電 旧上町線の跡

高校を卒業する(昭50年頃?)まで鹿児島にいらしたN さんから先月メールを戴きました。
2011年4月26日にアップした鹿児島市電市内風景で左へ分岐する軌道がある交叉点は郡元ではなく朝日通りだそうです。

これを撮った昭和42年は市役所南側の交叉点で分岐する軌道はない筈で、ここは郡元では? と推定したのですが、ここが朝日通り交叉点ということは市役所の南側に写っていた分岐線は一体何だったのか?
Nさんのメールによると 「この左側に向かう引込線は、1945年(昭和20年)の空襲で破壊され、休止となった上町線の旧ルートの名残です。ラッシュ時に運転されていた12系統や貸切の臨時運転の車両の折り返しに使われておりました」とありました。
戦前まで上町線はこの旧ルートを走っていたわけですね。その廃線跡の一部が使われていたとは驚きました。

朝日通り交叉点.左に分岐する軌道は上町線旧ルートの跡であった.1967.03.01 クリック拡大
電停「朝日通」の向こうに市役所の建物が見える.
左の旭相互銀行と右の日興証券のビルは現在も面影を残している.

朝日通り交叉点と市役所周辺の建物、そして上町線の旧ルートは上図の通りで、
撮影場所が不明だったのが次々と判ってきました。(電停名は当時の名称)
戦後の上町線が分岐する交叉点から朝日通り交叉点まで順に写真を並べてみました。

桟橋通り交叉点で左に分岐する上町線清水町行(戦後の新ルートで1985年廃止) 1967.03.01
手前が電停「市役所」で正面を進むと鹿児島駅前に出る.

久保陽子バイオリンリサイタルの垂れ幕がある南日本新聞のビルは市役所の斜め前にあった.
左にホーコクセメントのビルがあり両ビルの間に電停「市役所」が見える.
当時の電停「市役所」は市役所前にはなく、今の電停「市役所前」は市役所側に移動された?

西日本新聞ビルの横から見た桜島の噴煙

市役所前の広々とした通り.隣はホーコクセメントのビル.

上町線旧ルートの軌道跡があった朝日通り交叉点

2012年9月5日水曜日

ある日の八王子機関区

昭和37(1962)年の夏、八王子機関区を訪ねてみた。武蔵境などでよく見掛けたハチロクを見に行ったのだろう。EF11やED16がまだまだ活躍していた時代であった。3両製造された国産ED15が八王子区で廃車を迎え、その2年後であった。

EF112  八王子機関区  昭和37年夏
中野で見たEF11. 昭和41年3月

ED166 八王子機関区

2012年9月1日土曜日

真夏の片上鉄道3 片上の蒸機

昭和37年の訪問時に片上鉄道に在籍していた蒸機はC11×3両、C12×2両、C13×2両の計7両であり、C11とC12は国鉄と同じだが払下げではなく民鉄向けに製造された蒸機である。
C13は一見C11によく似ているが元はテンダー機であった経歴に興味深いものがある。

このC13は石原産業向けに製造された日車1Cテンダー機をタンク機に改造して片上鉄道に入線したことは良く知られているが、臼井茂信氏の「機関車の系譜図3」によれば、この石原産業向1Cテンダー機は樺太鉄道向けの亜流とある。片上C13の原形に近いと思われる樺太鉄道向7720形の写真を見るとテンダー機にしては動輪径が小さく、これと較べるとC11やC12は実に堂々とした動輪周りに見える。

C13-51  片上  1962.07.28

和気


片上

C12(上)と比較したC13(下)の動輪周り.C12動輪径1400φmmに対しC13は動輪径1250φmmと
径が小さい分こじんまりとしている.

C12-202と201. 201は自社発注で、202は大井川鉄道向けに製造されたもの

庫に休む C11-103
C11-101~103の3両を自社発注した民鉄向C11.