案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年6月29日金曜日

お知らせ

諸河 久 写真展  「電車道」 ~日本の路面電車今昔~
が7月5日から8月9日までキャノンギャラリーS にて開催されます。

作者メッセージには・・・今回の写真展は、アマチュア時代に撮影したモノクロ作品を中心に構成し、電車、街、人々の暮らしぶりなど、高度経済成長のただなかにあった各地の情景は貴重な記録となった・・・
とありますから1960年代の光景が素晴らしいカメラアイでふんだんに見れることでしょう。



2012年6月21日木曜日

福島交通軌道線 長岡分岐点(リニューアル)

軌道線の第1回と第6回目にアップした長岡分岐点について画像をスキャンし直してリニューアルします。

福島駅前から掛田、梁川、伊達駅前、湯野町へと向かう路面電車で、1966年12月訪問した当時に
営業していた各路線は下記であった。
福島駅前~長岡分岐点~湯野町 13.2km(飯坂東線)
伊達駅前~聖光学院前 0.9km(飯坂東線)
長岡分岐点~保原 4.6km(保原線)
保原~梁川 6.5km(梁川線)
保原~掛田 6.3km(掛田線)

ドロ軌道、木橋、雪山バックの畑の中、雑然とした商店街などを走り抜けるすごいロケーションの鉄道であった。訪問した1966年の12月は雪解けの泥んこ道のせいで、車体は泥だらけ、暗くてうす汚いイメージが強かった。当時は全国どこでも未舗装道路で、ドロ軌道を走る鉄道特有の汚さだったのであろう。
長岡分岐点や保原などの駅は商店街のど真ん中にあり、大晦日の乗客でどの駅も賑わっていて、とても廃線迫った鉄道には思えなかった。


 直進すると福島へ向かう. 左手に乗客待合所(中にはストーブが)が見える. 1966.12.31
大晦日の買い物の人々で賑わう商店街のど真ん中に「長岡分岐点」がある。


↗福島. 福島からやってきた電車はこの先↙のデルタ線で保原方面と伊達方面に分かれる。


伊達駅前、湯野町方面.  信用金庫前のデルタ線急カーブを右にガクガク曲がると保原へ向かう.




軌道線路線図はこちら


待合所の入口に「今度の電車は○○ゆき」の表示があり、下に付替えの行先表示板が並んでいる.


2012年6月19日火曜日

福島交通軌道線 旧街道を行く

福島市内 瀬上町から国道4号線と分かれ北上する旧街道(国道353号線)上を軌道線が走っていた。
瀬上市街地を通り抜け摺上川に架かる「さいわい橋」を渡ると「伊達」に入り停留所は「河原町」「長岡田町」と続き長岡分岐点へ至る。
瀬上や伊達の旧街道沿いには、歴史を感じさせる蔵や農家づくりの住宅が建っていてそこを行く未舗装の併用軌道には沼尻や花巻鉛線のような素晴らしい風情があった。


明日は正月の長岡田町辺り 1966.12.31


2012年6月17日日曜日

福島交通軌道線 さいわい橋

福島交通軌道線の中でもとりわけ印象深い木橋「さいわい」橋。

福島駅前を出て長岡分岐点の手前で電車は摺上川に架かる木橋「さいわい」橋を渡る。
橋の欄干には昭和41年12月竣功とあったので台風で流された橋が復旧直後だったのでしょう。
日中の雪解けで泥だらけの電車であったが、大晦日の朝の「さいわい橋」は素晴らしい光景であった。

大晦日の朝の電車  1966.12.31

福島駅前から来た電車は橋を渡り長岡分岐点へ向かう.



木で組まれた橋

さいわい橋を渡るとドロ軌道を長岡分岐点へ向かう.  河原町

2012年6月15日金曜日

大雄山の木造電車3

「大雄山の木造電車」のタイトルのまま続けますが今回は鋼体化車両のことです。

訪問した1963年2月は木造車モハ20、30形が活躍していたが、この時はモハ45以降の鋼体化車両が入線していて既に木造車→鋼体化車への交代が始まっていたようである。この翌年には湘南色したモハ34+クハ36が廃車になり、まもなく西武色した木造車も全て役目を終え鋼体化車両に交代された。

1963年2月に確認した鋼体化車両はモハ45+クハ23、モハ46、モハ47+クハ25、モハ48でいずれも元国鉄の払い下げ車でその前歴は複雑である。この時代 駿豆本線にはこの種の車両が大量にいた。
車歴解説は全て前述鉄道ピクトリアル吉川文夫氏の記事による。

モハ45とモハ48  大雄山 1963.2.22


鋼体化車モハ47と木造車モハ34 大雄山
モハ47は元国鉄クハ5802(三信鉄道買収車)を電装化したもので
昭和11年日車生まれの鋼体化車.昭和35年自社改造.

モハ48  大雄山
元国鉄クハ16457で昭和34に国鉄で廃車になり、昭和37年自社改造.


モハ45
昭和29年に国鉄から譲受けた木造電動車で、伊那電気鉄道買収のデ200形200が前身である.
大12.汽車会社東京支店生まれで,木造ダブルルーフ,正面に幅の狭い貫通扉を設けた車体に,Brill27MCB形台車をつけ,大雄山線で働いていたが,昭和34年に西武鉄道231形の車体と
交換し鋼体化改造を行った。台車もBrillからDT10(4コ電動機)に交換し旧モハ45の名残はなくなった。

クハ23
明治生まれの木造車クハ20形23に、モハ45と同様に西武鉄道231形の車体と交換し
モハ45+クハ23の半鋼製車編成としたもの.昭和34年自社改造.


モハ46
モハ45が西武系の車体であるのに対し、モハ46~48は国電の払い下げ車である.
モハ46は元国鉄ダブルルーフのモハ30を国鉄でシングルルーフに改造され
昭和34年廃車後、大雄山線入線に際し両運転台付に昭和35年自社改造.

クハ25
元国鉄クハ6020形(南武鉄道買収車)で昭和36年自社改造.


大雄山の車両工場

大雄山線訪問時に撮ったこの頃の小田急

大雄山線をオーバクロスする小田急デハ1200形3連.    五百羅漢


2300形(2扉セミクロスシートへ改造後). 小田原


そして42年後の大雄山線.  2005.09.18


2012年6月12日火曜日

大雄山の木造電車2

この時代の大雄山線の現役木造車は次の8両であった。
モハ20形 モハ21+クハ22
モハ30形 モハ32+モハ33
■■■■ モハ34+クハ36 (湘南色)
■■■■■ モハ37+クハ24(モハ35改造したクハ)    (廃車体モハ31)

モハ20形は戦時中から車体を大分改修し,シングルルーフ,上昇式窓になり妻面の形態も変わった。
モハ30形(31~37)で西武色の32 33 37も大改修されていてドアエンジン付両運に改造されシングルルーフ化した外観はモハ20形と見分けがつかない位よく似ていた。

大雄山の明治生まれの木造車 モハ34とモハ21.  1963.2.22

小田急と立体交叉する五百羅漢 緑町 を行く モハ32+モハ33.

大雄山を発車したモハ32+モハ33

ではモハ20形とモハ30形について

小田原駅で客を待つモハ20形(21+22)    

モハ30形37   大雄山

モハ30形32   大雄山

モハ30形32の車体. 大雄山
大改造により下の30形原形とは異なりモハ20形に近い.
モハ30形でも原形に近いクハ36   大雄山

何が履いていたのか不明だがMCBに類似した台車があった


参考文献: 鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊 伊豆箱根鉄道 吉川文夫氏

2012年6月11日月曜日

大雄山の木造電車1

子供の頃に見た小田原駅の片隅に居た湘南色した木造電車は一体何だったのか。
カメラを手に入れ、撮り始めて間もない昭和38年に伊豆箱根鉄道大雄山線を訪問してみました。

この時は西武色(ラズベリーレッドとベージュ)に塗られた木造車が活躍し、終点大雄山の構内で湘南色した深屋根の木造車が休んでいた。その2年後 昭和40年に発行された鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊の吉川文夫氏の伊豆箱根鉄道記事で初めてこれら木造車のことを知る事ができた。

木造車はモハ20形とモハ30形があり、どちらも明治44年新橋工製の元国鉄で明治生まれの国鉄創生期のボギー車の一員だそうである。大雄山線で唯一湘南色に塗られていた深屋根のモハ34+クハ36は原形をよく保ち他のシングルルーフ化した木造車よりずっと風格があった。


金時山を望む大雄山の駅  1963.2.22


この日活躍していた西武色のモハ20形(モハ21+クハ22)   大雄山


湘南色(橙と緑)に塗られたモハ30形(モハ34+クハ36).  大雄山 1963.2.22
車体は国鉄原形通りの窓配置,正面の窓はやや高さが大きいという国電スタイルを保ち,屋根はダブルルーフの上をシングルルーフで覆っている。昭和39年3月廃車 (吉川文夫氏の記事より)



モハ34と組んだクハ36


モハ34の台車

最も原形を残すモハ31の廃車体.  昭和31年7月廃車

2012年6月7日木曜日

小田急 向ヶ丘遊園駅と南武線連絡線

現在の小田急 向ヶ丘遊園駅は今でも昔からの跨線橋がある地上駅のままである。
そして北口には開業当時からの駅本屋がそのまま残っている。
昔の面影を残す地上駅向ヶ丘遊園駅にはホッとするものがある。

昔、この駅を登戸側に少し行った所に国鉄南武線宿河原に繋がる連絡線があった(下の写真)
この連絡線の先にある南武線の構内ではよくC12が貨物の入替作業をやっていた。
C12が煙を吐いて活躍していた登戸駅は今や近代的な乗換駅となり他の駅と同様に
昔の面影は何もない。

向ヶ丘遊園 - 登戸 1963年2月 
ここで分岐して南武線に繋がる線路があった.遠くに向ヶ丘遊園の跨線橋が見える.
向ヶ丘遊園駅上りホームのデハ1900形増備車1913. 右手が北口駅舎

現在の小田急向ヶ丘遊園駅の上りホーム. 2012.06.02
今も昔の跨線橋がある地上駅で昔の面影残す駅にホッとする.
昔この先のカーブする辺りから国鉄南武線に繋がる連絡線があった.

現在の北口.開業時からの駅本屋と昔からの跨線橋がある駅の風景.2012.06.02

2012年6月6日水曜日

小田急 下北沢駅2

下北沢駅には迷路のような連絡通路があり、たまに井の頭線ホームから小田急へ乗換える場合に
うっかり間違えてしまうことがある。
①小田急下りホームと井の頭線ホームをつなぐ連絡通路
②小田急上りホーム中央部と井の頭線ホームをつなぐ連絡通路
③小田急上りホーム後部から井の頭線ホームをつなぐ連絡通路
④小田急改札口と井の頭線ホームをつなぐ通路
乗客にとっては不便この上なしでしょうけど、この不合理な迷路は下北沢駅らしい楽しさでもある。

小田急と井の頭線が交差するところ. 2009.02.20

井の頭線が小田急をまたぐ2本の橋脚の間に連絡通路があり、井の頭線ホームから小田急ホームへ進むと小田原寄りに進む空中廊下と呼ばれている中二階の通路がある。昔は無かった筈で小田原寄りにホームを延長したために追加したのでしょう。このように駅の拡大で次々と通路を増設し今の迷路になってしまったと思われる。


左の中二階通路が空中廊下. 2008.09.22


現在の空中廊下の内部 2012.06.02
こうした下北沢らしい名物は地下駅開業の日まで使われるのでしょう。

2012年6月5日火曜日

小田急 下北沢駅1

昭和35年頃から約50年、小田急の駅で昔と変わらないのが下北沢です。
仮に昔の写真と対比したとしても、通路(井の頭線~小田急上りホーム)の追加や代田側ホーム延長など以外は50年前の駅と何も変わらないでしょう。
地下駅化の工事が始まってから時々撮影したことがあり、あれからもう4年、先日久しぶりに下車したところ今も地上駅の変化はあまりないようです。やがてやって来る地下駅開業の日、地上駅の機能は停止し下北沢らしい光景は消滅して永遠に戻らない。


歴史ある井の頭線の橋脚. 2009.02.20
2本の橋脚の間に井の頭線との連絡通路が見える


改札口入って直ぐ下の上りホーム.  2008.04.11


上りホームの中央部. 2008.04.11

2012年6月2日土曜日

小田急 喜多見駅の今昔

小田急線喜多見駅の昔は現在の光景からは想像もできないのどかな駅であった。
写真の駅は遥か昔の開業から1960(昭35)年頃までこの構内踏切と小さな待合室のあるホームであった。
昭和35年から数えると約50年、この間の喜多見駅の変貌ぶりを対比してみました。

昭和28年の喜多見駅. 狛江市吉原様所蔵
構内踏切と小さな待合室があるホームは1960(昭35)年頃まであった.

今日の喜多見駅ホーム. 2012.06.02


では喜多見駅が現在の姿になるまでの工事の経過は

~1960年頃 開業当時からの踏切のある駅(上の写真)
1960~61年頃 跨線橋駅に改築
1989年 複々線高架化工事着工
1997年 喜多見~和泉多摩川複々線高架化工事完成(現喜多見駅)


1962(昭37)年頃には跨線橋駅に改装されていた喜多見駅. 1966.04.11


ホームが改装されたが開業時からの三角屋根の駅本屋はそのまま残った。 1966.04.11


三角屋根の本屋には小田急の社紋がある.売店を右に見て中に入ると
正面に切符売場があり、左隣に荷扱所があり左手に改札口があった.

複々線高架化で三角屋根の駅本屋も消え現在の駅前風景となる.2012.06.02


喜多見駅から成城方面を見た今昔比較
1966.04.11

構内踏切がある昭和30年代前半の喜多見駅の風景.
特急2300形が成城の坂を下ってきたところ.
喜多見駅構内踏切を渡り左手に改札口があった.


今日の喜多見駅から成城方面を見る.  2012.06.02
喜多見駅の高架化と成城駅の地下化で成城からの坂が無くなった.