案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年5月31日木曜日

江ノ電 七里ヶ浜~鎌倉

鎌倉高校前を過ぎ七里ヶ浜まで海岸線を走り、その先を海岸から離れると鎌倉らしい丘陵地帯に入る。丘陵を切り開いた鎌倉・七切り通しの一つである「極楽寺切り通し」の脇を極楽寺トンネルを抜け鎌倉市街へと入って行く。

七里ヶ浜の駅前は廃材置場のようで雑然としていた. 1963.4.28

七里ヶ浜を出てS字カーブするとまた海岸に接近.丘陵地帯には木もなく荒涼とした風景であった.

Sカーブして海岸から離れ鎌倉丘陵地帯へ入ると今も緑が多い.
元都電の301+351がよく似合う海辺の長閑な風景. 稲村ケ崎
この先に稲村ケ崎、極楽寺の駅があり極楽寺トンネルの丘陵が前方に見える.
写真の松の木は今ではすっかり消えてしまった.

いかにも鎌倉らしい丘陵に囲まれたところ極楽寺に江の電の車庫がある。
極楽寺車庫には108 303 105等が休んでいた.

1947年に東急電鉄の電動貨車デト3011を譲受したデト2

極楽寺トンネルを向こうへ抜けると鎌倉市街へ出る.藤沢側から見る

背後の丘陵の極楽寺トンネルを抜けると長谷駅に着く.鎌倉側から見る

由比ヶ浜駅

鎌倉駅. すっきりとした建屋で国鉄鎌倉駅が目の前に.

2012年5月29日火曜日

江ノ電 藤沢~鎌倉高校前

今も魅力溢れる江ノ電、1963(昭38)年のポール時代の未使用の画像を更に整理してみました。

502+552 藤沢  1963.4.28
藤沢駅がビルになる前はこんな駅であった。ここから今はなきヨーロピアンスタイルのポール電車501編成と502編成が発車していた。藤沢駅を出発し江ノ島から鎌倉高校前まで当時の風景を追ってみます。

鵠沼付近 501+551

藤沢を出ると鵠沼の静かな住宅地を行く
301+351. 元都電を改造して江ノ電初の連接車に.

302+352.  湘南海岸公園あたりには畑が開ける.

江ノ島駅の交換風景. 351と551どちらも今は見る事ができない.

501+551.  江ノ島-腰越間の素晴らしき風景.

腰越を過ぎると海沿いに出る.305+355  腰越-鎌倉高校前

502+552

鎌倉高校前.   駅の背後は丘陵のみで昔は何もなかった.

googleストリートビューより

2012年5月28日月曜日

お知らせ

5月28日発売された講談社発行「究極のナローゲージ鉄道 せまい鉄路の記録集
に私の井笠鉄道の画像が25点ほど掲載されました。
著者は軽便でお馴染みの せんろ商会( けいてつ協会本局 ) 岡本憲之さんです。

サイズ:B5判
ページ数:159

2012年5月26日土曜日

約50年ぶりの江ノ電

1963(昭38)年に撮った江ノ電の写真を見てみると、この当時の江ノ電はポールであった。
銚子電鉄もポールで東京近辺ではまだポール電車が走っていた時代であった。
そんなポール時代の風景を昨年7月に江ノ電ポール電車の時代で紹介しました。
あれを撮った時からほぼ50年、ふらっと立ち寄った江ノ電にカメラを向けてみると、
今も生活感と活気に溢れたローカル私鉄光景に、じっくりと撮りたくなってきたものです。

ポール時代の305+355 湘南海岸公園-鵠沼  1963.4.28


昔と変わらない魅力溢れる併用軌道区間.江ノ島-腰越 2012.05.25
あの時の305が今も活躍している.


どの駅も乗客で活気に溢れている. 江ノ島


列車が到着するとホームに溢れる乗客が. 鎌倉


301+351 江ノ島  1963.4.28
100形107と110 江ノ島
301+351 江ノ島
305+355  江ノ島
501+551 江ノ島

2012年5月24日木曜日

都電 銀座通り

昭和42年11月の銀座四丁目の光景。これを撮った14日後の12月9日を最後に1系統他と伴に8系統(中目黒~築地)、4系統(五反田~銀座二)も銀座四丁目から消えた。
昭和41年に大衆車サニー、カローラが発売され、晴海で開催された東京モーターショーは大変な熱気であった。この銀座四丁目の晴海通りはそんなマイカーが身近な存在となってきた車社会到来の時代が思い起こされる。街行く人々に夢と希望が溢れ、昭和40年代の日本は経済大国への道をまっしぐらに進んでいた。


銀座4丁目の光景. 三越が改装中 1967.11.26 クリックで拡大


4丁目の中央通りを行く4系統五反田行

2012年5月22日火曜日

都電 古川橋の昭和42年と今

街の変貌ぶりはGoogleストリートビューで鮮明に見れますが、それだけでは判らない何かを求めて
自分の足で歩いてみました。

↑古川橋側から見た「魚藍坂下」電停あたり      1967.12.03
魚藍坂の交差点を過ぎると直ぐに「魚藍坂下」電停に到着する.

↓ここでゆるくカーブすると首都高下の古川橋電停に到着する.
古川橋手前の通りの昭和42年と今. 
当時「古書買入」「小川商店」や「写真スタジオ」の看板を掲げていた店は今もある.

2012年5月19日土曜日

都電 魚藍坂を行く

最近、地下鉄南北線・三田線の白金高輪駅で降りて大通りを古川橋方面に歩いたことがあったが、
都電が走っていた魚藍坂は確かこの辺だった筈なのにサッパリ判らず。
いったい白金高輪の駅は昔の都電でどの辺りなのか? 魚藍坂はどこにあったのか?
現在の地図に昔の都電の経路を書いて都電を撮った位置を確認してみました。



五反田からの国道1号桜田通りは現在の地下鉄「白金高輪」駅のところで右に曲がり、その先で都道415号「高輪麻布線」と交叉する。ここが魚藍坂の交叉点で5、4系統は都道「高輪麻布線」に入り魚藍坂を下って古川橋に出た。

当時(昭42年)、国道1号桜田通りの片側3車線はここで終わり、右に曲がり片側1車線となる.
この片側3車線の道路を直進し古川橋へ下る道路はまだ出来ていなかった.
この交叉点の処に今の地下鉄「白金高輪」駅ができたのだった。 1967.12.03
地下鉄「白金高輪」駅ができた現在の風景. 2012年5月

 
桜田通りを進んで魚藍坂交叉点を曲がり都道「高輪麻布線」に入る5、4系統
クリックで拡大

 
魚藍坂といえばカツミ模型店、店はこの魚藍坂の交叉点の近くにあった。

坂を下ったところが魚藍坂下で、その先の古川橋に開通直後の首都高速が見える.

2012年5月18日金曜日

都電 品川駅前

清正公前で4系統(五反田駅前~銀座二)と合流した5系統(目黒駅前~永代橋)は桜田通りを進むと
魚藍坂の交差点に出ます。ここで合流する7系統(品川~四谷三)を魚藍坂の向こう側 泉岳寺前に
下って品川駅前に出てみました。


7系統品川駅前行は魚藍坂の交叉点を過ぎ急な坂を登る. 1967.12.03

2012年5月15日火曜日

都電5系統 白金を行く

渋谷から34系統に乗って明治通りを渋谷橋、天現寺橋と進むと古川橋に到着します。昭和42年の古川橋界隈は道路拡張の工事中で殺風景な風景ばかり。ここは後回しにして古川橋を通る5系統(目黒駅前~永代橋)を目黒駅前から古川橋までおいしい処だけ追ってみます。

「祝目黒駅完成」の表示から目黒駅ビルが完成直後だったのでしょう.
目黒駅ビルは築後45年経って今も変わらない.
手前の分岐線は目黒車庫へ向かう.1967.12.03

2012年5月13日日曜日

都電で通学していた頃2

通学路だった34系統の渋谷橋から分岐していた8系統を終点中目黒まで進んでみます。
恵比寿~中目黒一帯は今やお洒落な街になっているようですが
そこの駒沢通りを小型車1200形が昭和42年まで走っていました。
通学では使っていませんでしが、小型車の走る枝線にいつも惹かれて
廃線直前になって初めて中目黒を訪問したものです。


山手線恵比寿のガード下をくぐる中目黒発築地行. 1967.12.03

2012年5月10日木曜日

西武新宿線 朝の101系

今朝、家を出たとたん階下から凄い轟音が聞こえてきたので
もしやと下を見ると何と101系10連の急行が新宿へ向かっていた。
昨年の3月ダイヤ改正以降、平日朝の101系定期運用は無くなったようで
最近は諦めていたが今朝見たのはいつもの朝の急行101系(8+2両)の編成であった。
早速、お決まりの定点観測ポイントで待って、
新宿から引き返してくる下り列車の先頭に連結された101系2連を狙った。

下り新所沢行. 301系(8連)+101系(2連295+296) 武蔵関-東伏見 2012.05.10  クリックで拡大

101系急行は8両+2両の編成だが、通常は写真のように101系2連が川越側に連結される。
ごく稀に2連が新宿側に連結される事があり、その時は上り先頭車が魅力的な2丁パンタ車となる。
今や新宿線に残された101系2連はこの1編成くらいか?

注) 新101系やN101系の新or Nの表示は省略してあります。