案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年5月31日木曜日

江ノ電 七里ヶ浜~鎌倉

鎌倉高校前を過ぎ七里ヶ浜まで海岸線を走り、その先を海岸から離れると鎌倉らしい丘陵地帯に入る。丘陵を切り開いた鎌倉・七切り通しの一つである「極楽寺切り通し」の脇を極楽寺トンネルを抜け鎌倉市街へと入って行く。

七里ヶ浜の駅前は廃材置場のようで雑然としていた. 1963.4.28

2012年5月29日火曜日

江ノ電 藤沢~鎌倉高校前

今も魅力溢れる江ノ電、1963(昭38)年のポール時代の未使用の画像を更に整理してみました。
1記事で画像が多くなると飛ばして見るのにスクロールが大変、そこで便利な「続きを読む」の機能を先日から使い始めました。画像が多い記事や過去のアーカイブはなるべく左下の「続きを読む」をクリックして詳細に入るようにして行きます。

502+552 藤沢  1963.4.28
藤沢駅がビルになる前はこんな駅であった。ここから今はなきヨーロピアンスタイルのポール電車501編成と502編成が発車していた。藤沢駅を出発し江ノ島から鎌倉高校前まで当時の風景を追ってみます。

2012年5月28日月曜日

お知らせ

5月28日発売された講談社発行「究極のナローゲージ鉄道 せまい鉄路の記録集
に私の井笠鉄道の画像が25点ほど掲載されました。
著者は軽便でお馴染みの せんろ商会( けいてつ協会本局 ) 岡本憲之さんです。

サイズ:B5判
ページ数:159

2012年5月26日土曜日

約50年ぶりの江ノ電

1963(昭38)年に撮った江ノ電の写真を見てみると、この当時の江ノ電はポールであった。
銚子電鉄もポールで東京近辺ではまだポール電車が走っていた時代であった。
そんなポール時代の風景を昨年7月に江ノ電ポール電車の時代で紹介しました。
あれを撮った時からほぼ50年、ふらっと立ち寄った江ノ電にカメラを向けてみると、
今も生活感と活気に溢れたローカル私鉄光景に、じっくりと撮りたくなってきたものです。

ポール時代の305+355 湘南海岸公園-鵠沼  1963.4.28


昔と変わらない魅力溢れる併用軌道区間.江ノ島-腰越 2012.05.25
あの時の305が今も活躍している.

2012年5月24日木曜日

都電 銀座通り

昭和42年11月の銀座四丁目の光景。これを撮った14日後の12月9日を最後に1系統他と伴に8系統(中目黒~築地)、4系統(五反田~銀座二)も銀座四丁目から消えた。
昭和41年に大衆車サニー、カローラが発売され、晴海で開催された東京モーターショーは大変な熱気であった。この銀座四丁目の晴海通りはそんなマイカーが身近な存在となってきた車社会到来の時代が思い起こされる。街行く人々に夢と希望が溢れ、昭和40年代の日本は経済大国への道をまっしぐらに進んでいた。


銀座4丁目の光景. 三越が改装中 1967.11.26 クリックで拡大


4丁目の中央通りを行く4系統五反田行

2012年5月22日火曜日

都電 古川橋の昭和42年と今

街の変貌ぶりはGoogleストリートビューで鮮明に見れますが、それだけでは判らない何かを求めて
自分の足で歩いてみました。

↑古川橋側から見た「魚藍坂下」電停あたり      1967.12.03
魚藍坂の交差点を過ぎると直ぐに「魚藍坂下」電停に到着する.

↓ここでゆるくカーブすると首都高下の古川橋電停に到着する.
古川橋手前の通りの昭和42年と今. 
当時「古書買入」「小川商店」や「写真スタジオ」の看板を掲げていた店は今もある.

2012年5月19日土曜日

都電 魚藍坂を行く

最近、地下鉄南北線・三田線の白金高輪駅で降りて大通りを古川橋方面に歩いたことがあったが、
都電が走っていた魚藍坂は確かこの辺だった筈なのにサッパリ判らず。
いったい白金高輪の駅は昔の都電でどの辺りなのか? 魚藍坂はどこにあったのか?
現在の地図に昔の都電の経路を書いて都電を撮った位置を確認してみました。



五反田からの国道1号桜田通りは現在の地下鉄「白金高輪」駅のところで右に曲がり、その先で都道415号「高輪麻布線」と交叉する。ここが魚藍坂の交叉点で5、4系統は都道「高輪麻布線」に入り魚藍坂を下って古川橋に出た。

当時(昭42年)、国道1号桜田通りの片側3車線はここで終わり、右に曲がり片側1車線となる.
この片側3車線の道路を直進し古川橋へ下る道路はまだ出来ていなかった.
この交叉点の処に今の地下鉄「白金高輪」駅ができたのだった。 1967.12.03
地下鉄「白金高輪」駅ができた現在の風景. 2012年5月

2012年5月18日金曜日

都電 品川駅前

清正公前で4系統(五反田駅前~銀座二)と合流した5系統(目黒駅前~永代橋)は桜田通りを進むと
魚藍坂の交差点に出ます。ここで合流する7系統(品川~四谷三)を魚藍坂の向こう側 泉岳寺前に
下って品川駅前に出てみました。


7系統品川駅前行は魚藍坂の交叉点を過ぎ急な坂を登る. 1967.12.03

2012年5月15日火曜日

都電5系統 白金を行く

渋谷から34系統に乗って明治通りを渋谷橋、天現寺橋と進むと古川橋に到着します。昭和42年の古川橋界隈は道路拡張の工事中で殺風景な風景ばかり。ここは後回しにして古川橋を通る5系統(目黒駅前~永代橋)を目黒駅前から古川橋までおいしい処だけ追ってみます。

「祝目黒駅完成」の表示から目黒駅ビルが完成直後だったのでしょう.
目黒駅ビルは築後45年経って今も変わらない.
手前の分岐線は目黒車庫へ向かう.1967.12.03

2012年5月13日日曜日

都電で通学していた頃2

通学路だった34系統の渋谷橋から分岐していた8系統を終点中目黒まで進んでみます。
恵比寿~中目黒一帯は今やお洒落な街になっているようですが
そこの駒沢通りを小型車1200形が昭和42年まで走っていました。
通学では使っていませんでしが、小型車の走る枝線にいつも惹かれて
廃線直前になって初めて中目黒を訪問したものです。


山手線恵比寿のガード下をくぐる中目黒発築地行. 1967.12.03

2012年5月10日木曜日

西武新宿線 朝の101系

今朝、家を出たとたん階下から凄い轟音が聞こえてきたので
もしやと下を見ると何と101系10連の急行が新宿へ向かっていた。
昨年の3月ダイヤ改正以降、平日朝の101系定期運用は無くなったようで
最近は諦めていたが今朝見たのはいつもの朝の急行101系(8+2両)の編成であった。
早速、お決まりの定点観測ポイントで待って、
新宿から引き返してくる下り列車の先頭に連結された101系2連を狙った。

下り新所沢行. 301系(8連)+101系(2連295+296) 武蔵関-東伏見 2012.05.10  クリックで拡大

101系急行は8両+2両の編成だが、通常は写真のように101系2連が川越側に連結される。
ごく稀に2連が新宿側に連結される事があり、その時は上り先頭車が魅力的な2丁パンタ車となる。
今や新宿線に残された101系2連はこの1編成くらいか?

注) 新101系やN101系の新or Nの表示は省略してあります。

2012年5月9日水曜日

都電で通学していた頃1

4月26日に渋谷東口にオープンした「渋谷ヒカリエ」と云えば、
東急文化会館前にあった都電の風景を思い出します。
学生時代に渋谷東口から都電34系統に乗って通学していました。
この頃は地方へ頻繁に撮りに行っていたのに、何故か毎日お世話になっている都電は全く撮ってなく、
廃止が迫る昭和42年頃になってようやく撮った都電。


34系統(渋谷~金杉橋)   1967.12.03 クリックで拡大
34系統は1969年10月に廃止

2012年5月8日火曜日

同和鉱業小坂鉄道線

東北の鉱山ナロー小坂鉄道は昭和37年10月に1067mmに改軌され、
私が訪問した昭和41年3月時点での鉄道名は同和鉱業小坂鉄道線(乗車券による)であった。
奥羽本線の大館から小坂線と花岡線が出ていて、ありふれた気動車と機関車の風景になっていた。
ナロー時代の小坂の客車は軽便とは思えない立派な体格で、転出先の越後交通栃尾線での
姿を2点添付してみました。

花岡ゆきと小坂ゆきの発車案内が表示された大館駅. 1966.03.05  クリックで拡大



花岡ゆきと小坂ゆきの発車案内が表示された大館駅. 


花岡線と小坂線が別れる.

小坂からやってきた貨物列車が凍りついた田んぼの中を走る.
 

大館駅構内の貨物作業


栃尾線に転じた小坂鉄道の客車5両。  長岡 1964.3.22

栃尾線に転じたホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時にやって来た他の5両とは外観が異なる。 悠久山 1964.3.22

2012年5月6日日曜日

尾小屋鉄道 5号機撮影会

最近、諸河久プロからこんな写真を頂戴しました。
1970(昭45)年秋の尾小屋5号機撮影会の写真です。
前日に尾小屋に一泊し、素晴らしく晴れ渡った朝に尾小屋駅に向かうと、既に撮影を開始されている皆さんが居て、皆さんと一緒に撮ったものです。
この尾小屋駅の朝の出来事はよく覚えているのですが、記念写真を撮ったことは全く記憶がありません。
諸河氏に全員のお名前を教えてもらい驚いたのは故臼井茂信氏が写っていたことです。
そしてその横には夜のC62流し撮りで有名なあのT氏が。
お二人がこの日いらしていたことを40年以上経て初めて知った次第です。
同行した故飯島巌氏がキャブに、その下に諸河久氏、そして右の綿パン姿が私です。
誰もが若かった42年前の遠い昔の出来事でした。


尾小屋駅の5号機の前で. 撮影:諸河久氏 1970.11.03

2012年5月4日金曜日

尾小屋鉄道の客車

新小松駅にいた3両の客車ホハフ8、7、3 の改装前の姿、そして他にどんな客車が
過去に在籍していたのか、1962(昭37)年の尾小屋鉄道にまた戻してみます。
昭和37年に撮った写真を並べてみると全くひと気のないものばかり。
この頃はまだ鉄道の活きた風景を撮る意識が無く車両が撮れれば満足で、
駅風景などではわざわざ乗客などが入らないようにして撮ったのでしょう。
惜しい事をしてしまいました。
当時の尾小屋鉄道の活気を表わす光景として乗客を満載した写真を1点入れてみました。

                                    特記なきは1962.8.1撮影
発車待ちのDC121に牽かれた客車ホハフ3+ホハフ7+ハフ1    新小松



新小松車庫でバスとの兼用はまだ右手の給油スタンドくらい. 
引込線は3本が整備工場・車庫へ入り、1本はターンテーブル・給水塔の線であった.

乗客を満載して尾小屋へ向け発車したDC121+ホハフ3+ホハフ7+ハフ1  新小松 

客車は単車を除き全て三重交通から譲受している.

ホハフ6.  アーチバー台車 軸距36.2iin(920mm)、車輪径18.5in(470mm)

1ヵ月前に入線したホハフ 7とホハフ8

元三重交通のサニ401.ホハフ7と8のみは三重交通のクリーム/緑の塗分のまま使われていた.

ホハフ8の菱枠台車 
軸距38in(966mm)、車輪径19in(482mm)で車輪径がかなりの小径

 
ホハフ1. アーチバー台車 軸距36.2in(920mm)、車輪径20in(510mm)
 
ホハフ2.  アーチバー台車 軸距35.8in(910mm)、車輪径20in(510mm)

ホハフ3. アーチバー台車 軸距40.5in(1030mm)、車輪径24in(610mm)
ホハフ5.1964.12.30 アーチバー台車 軸距41.3in(1050mm)、車輪径24in(610mm)

ハフ1  車輪径20in(508mm)

2012年5月1日火曜日

昭和51年の小松駅2

尾小屋鉄道の新小松駅を前回アップしましたが、更に駅の俯瞰など風景をアップしてみます。

レストランのある隣のビルから見降ろすと新小松駅はまるでジオラマのような光景が。
駅に佇むのはホハフ8、7、3の客車とキハ3(元遠鉄奥山線)で、キハ3の単行がひっそりと発車して行った.
新小松駅前は自動販売機・ゲーム24 時間営業「Auto Snack 24」と書かれたプレハブ小屋のような建物にスペースが割かれ、駅待合室の入口のガラスには尾鉄観光旅行社と表示されていた。
この頃の尾小屋鉄道はもうバス主体の会社になっていたのでしょう。


模型のような新小松駅   1976.04.09


小松駅に鋼板張り木造客車3両が佇む.


模型のような瓦屋根の建物.
新小松駅(本社)建屋に不釣り合いな Auto Snack 24の建物が駅前広場を占める.

尾鉄観光旅行社の看板や表示.


残った線路が2本になってしまった車庫に休むキハ1とキハ2、そして奥にDCが2両.