案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年2月21日火曜日

筑豊電鉄 直通運転

西鉄北九州線は総延長44Km、当時の主力車種だけでも600形50両、1000形連接車64編成と巨大な路面電車路線であり撮影対象ではなかったが、筑豊電鉄から戸畑行き直通に乗って巨大路線の一端を垣間見た。
筑豊電鉄の基点となる黒崎駅前. 左側が国鉄黒崎駅  1967.2.27  画像クリックで拡大
筑豊電鉄は直通運転で北九州線を先へ進む.

黒崎駅前にやってきた直通筑豊中間行.


中央町の交叉点を行く砂津行き.枝光線が左へ別れる.
銀行や信用金庫がやたらと目に着く一帯
 
枝光線を行く「3両連接車」の看板を下げた3車体連接車1055.まだ3連接の本数が少なかった頃.


66形100形200形500形と古い電車が盛んに走っていた時代.  幸町?


若戸大橋に沿って走ると終点戸畑に到着する.


戸畑大橋が海に向ってカーブする処の下で軌道が終わっていた.
対岸には筑豊本線の若松駅がある.

2012年2月19日日曜日

鞍馬線 岩倉から見る比叡山

京福鞍馬線 岩倉盆地」でコメント戴いたkawkさんの情報から
デオ300の写真を探してみるともう一枚ありました。
ちょうど背景に比叡山が写っていたのでアップしてみます。
kawkさんのコメントに因れば岩倉駅付近から見る比叡山の姿が一番美しいとのこと。
たまたま岩倉駅で降りたのが幸運でした。


比叡山をバックに岩倉盆地を行くデオ300.  1969.1.2 画像クリックで拡大
この日デオ200は盛んに走っていたが、デオ300(2両在籍)は滅多に来なかった。



岩倉盆地を行くこちらはデオ200


2012年2月17日金曜日

筑豊電鉄 閉山後の筑豊を走る

筑豊電鉄は1976年に初めて西鉄から連接車を譲り受けたというから、この頃はまだ自社の車両は保有してなく、西鉄北九州線からの乗り入車や借入車でまかなっていたらしい。

筑豊電鉄は西鉄北九州線から貞元で分岐し筑豊電鉄の専用軌道に入る。
西鉄北九州線の車両は、路面電車としては高速仕様ぎみであり、郊外を飛ばす筑豊電鉄にとってはピッタリの電車。市内を走るのとは違い筑豊電鉄の区間ではかなり高速で頻繁にやって来た。

都市間輸送の西鉄北九州線が全面廃止されたのに対し、ベットタウンと都市を結ぶインターアーバン路線 筑豊電鉄は今も元気に走り続けている。


西鉄北九州線の黒崎車庫前 1967.2.27 


西鉄北九州線を走る筑豊直方行. 左に鹿児島本線と北九州工業地帯が


 貞元(今の熊西) ここで筑豊電鉄が分かれ筑豊直方へ向かう.


貞元の分岐点. 左が西鉄北九州線の折尾行.右が筑豊電鉄の軌道. 画面クリックで拡大


筑豊電鉄の専用軌道を走る上り電車.戸畑行乗入れが多かった.


沿線のベットタウンへの変貌は、まだまだこれからなのだろう. 貞元-萩原


郊外の人口が増えたせいか日中の乗客も多い. 萩原 1967.2.27

北九州が製鉄業を中心とした重化学工業が成長するにつれて沿線のベッドタウン化が進み、
筑豊電鉄の利用客の増加は1970年代にピークを迎える。


参考: 週間朝日百科 歴史でめぐる鉄道全路線 公営・私鉄No.23より

2012年2月16日木曜日

筑豊電鉄

戦後生まれの筑豊電気鉄道、昭和31年に貞元~筑豊中間が開業しその後筑豊直方まで延長された。
西鉄北九州線との相互乗入れで、筑豊電鉄(専用軌道)は西鉄の路面軌道へ直通運転していた。

黒崎市街を走る筑豊直方行. 黒崎車庫前 1967.2.27 画像クリックで拡大
北九州工業地帯の活況で、筑豊電鉄沿線郊外のベットタウン化が進んでいる頃。

2012年2月15日水曜日

栃尾線 気になる客車2題

上見附駅の構内で目に止まった気になる2両の客車。ユーモラスなカマボコ屋根の客車と、古い都電を改造した客車。これらは昭和48年の栃尾線近代化(総括制御編成化)の数年前まで活躍した。

撮影: 全て1964.3.22
カマボコ屋根のホハ20.上見附  画像クリックで拡大
駅の脇には日通の建物から排出される煙、その先に朽ち果てそうな建物が並ぶ1960年代の風景が.

そんな風景を背に停車していた簡素な作りのカマボコ客車。昭25年自社工場で新作されたホハ20で、もう1両の同形ホハ21は何と電車に化けている.模型でも簡単に作れそうなカタチに思わず車体各部の寸法を測ってしまった。

↓が元カマボコ客車ホハ21を改造して出来た電車で、元の面影は全くない.
細面で中々スマートなモハ211(元カマボコ). 悠久山
写真を付け合わせてみるとこの編成はモハ211+ホハ11+ホハ20で、
なんと味わい深い編成だろうか.


元都電のホハ11.上見附
こちらは昭3年汽車会社製の元都電杉並線の電車を客車化したもので、妻面の窓が低いのが元路面電車らしい.アーチバー台車に交換など改装してすっかり軽便客車になりきっている。


発車待ちの元都電ホハ11の車内には子供が一人.
車内は木作りで両開き式の客室ドア、紐のような吊皮、網棚やシート等 都電の名残りかも知れない.
客車内は寒いせいか乗客の多くは前の電車に乗り込んでいた(下の写真)

手をつないだモハ211(元カマボコ)とホハ11(元都電).



2012年2月11日土曜日

栃尾線 モハ209

1月29日の「相模鉄道 元小田急1100形」記事からオリンパスペンSで撮った画像を多く掲載しています。
今回も全てオリンパスペンSで撮ったものでハーフサイズカメラはメモ代わりに気楽に撮ったせいか
「こんなものが写っていた」の発見がよくあります。
1964(昭39)年の越後交通栃尾線訪問は天候の悪い一日で、しかも車両が地味な茶一色の時代で画像がパッとしませんが、どれも奇想天外の車両で驚きの軽便でした。栃尾線で最も奇抜な車両はモハ209でしょう。HOナローの模型では人気もののようです。

35mmで撮った栃尾線モハ209が2010年10月の「栃尾線 古典、珍品車両の宝庫」にあります。


下り朝の一番列車  浦瀨  1964.3.22


画像クリックで拡大
モハ209に牽かれたニフ17  加津保 椿沢
手前のモハ209に較べニフの背が極端に低く、このアンバランスさが軽便の楽しいところ.


上見附
電機のようなデッキが付いたモハ209は、1952年の自社製でモーター4個を装着し、前後2軸は定格出力42kWの吊り掛け式、中央寄り2軸は定格出力56kWの床下装架の直角カルダン式と、気動車の
床下エンジンをモータに交換しブロペラシャフトで駆動するような珍しい電車であった。
こんな珍品を自社製造してしまう栃尾線の車両工場が凄い。自前主義で数々の改造車両を生み出してきた車両工場にとってこの程度はお手の物だったのだろう。


モハ209が牽く列車.モハの床下にプロペラシャフトが見える.  上見附
モハ209の出力196kWは電機ED51並みで電機代わりにも使われたようだ。

2012年2月9日木曜日

玉電 二子玉川園へ下る

玉電瀬田を発車すると専用軌道に入り、多摩川べりにある二子玉川園へ向かって下る.
松林がある坂の途中、左手丘の上に行善寺があり、行善寺から見える風景は江戸時代から「玉川八景」と呼ばれ有名であったそうだ。松林がある玉川八景の坂は玉電風景の名所でもあった。

坂の途中の小さな踏切  1965.7.27 画像クリックで拡大 
坂の周囲には自然豊かな風景があった.
行善寺の脇を松林がある急勾配を登る.


二子玉川園  駅は一時的に渋谷寄りに移動していた時代.  1965.7.27

5番線砧線の砧本村行、4番線渋谷行


二子玉川園を出た大井町線が併用軌道を溝ノ口へ向かう. 1965.7.27


昭和41年まで見られた大井町線が二子橋を渡る光景.


現在の地図上に玉電と国道246をなぞってみました。

2012年2月8日水曜日

玉電 瀬田の交差点

昨日アップした瀬田の交差点は昭和44年に撮った風景で、その4年前 昭和40年の瀬田の交差点はこんな風景であった。交差点や建物の風景はたった4年間で大きく変貌したようだ。
昭和39年の東京オリンピック開催に向けて駒沢まで国道246が拡張整備され、昭和40年はその先の駒沢~瀬田間の246の新道はまだ工事中であり、瀬田の交差点に昔の風景が残っていたのであろう。


昭和40年の瀬田の交差点と電停 1965.7.27  画像クリックで拡大 
まだ国道246の新ルートが開通前のようで、交差点に歩道橋もなく駅やその周辺は広々としていた.
↓車が少なく電停周辺の道路上には人々が往来し、朝夕は道路に人が溢れたことだろう.
花巻電鉄軌道線や福島交通軌道線でよく見られた光景だ。

瀬田の交差点から併用軌道が坂へ向かう.

併用軌道から専用軌道に入ると坂を下る.

2012年2月7日火曜日

玉電 軒先かすめて

用賀を出て玉電瀬田までの区間は大山街道の併用軌道に戻り、街道の片隅を軒先かすめて走る光景が見られた。地方でよく見掛けたこんな風景は並走する国道246とは別世界であり、昔の世田谷のよさを廃線になるまで残していた。
何も遠い地方へ出掛けなくても足元東京でこんな素晴らしい区間があるなんてその時は気付かなかった。いつでも撮れる玉電、身近過ぎた玉電、撮ったのはいつも何かのついでだった。


店先に接近した軌道. 用賀-玉電瀬田 1969.4.22  画像クリックで拡大 



地方の街道を思わせる長閑な世田谷風景.  用賀-玉電瀬田

八百屋とパン屋の店先を走る.



歩道橋から撮った玉電瀬田の電停.右が国道246  1969.4.22

瀬田で交差する国道246の整備は既に開通していたようで交通量が一気に増大か.
国道246とは対称的に玉電が走る通りは車も少なく昔のままの電停風景のようだ。
この瀬田の交差点は、その後、環八通りが交差し全く姿を変えてしまった。

2012年2月5日日曜日

東野鉄道 西那須野駅

東北本線西那須野駅の待合室で、頭上を通過する新幹線の轟音を聞きながら東北本線を待っていた先日、ふと東口方面を眺めると冬の青空に白い雲がポッカリが浮かびこの駅前から出ていた東野鉄道のことが思い起された。

遠い昔この東口駅前に東野鉄道のホームがあった. 2012.2.3 画像クリックで拡大

西那須野東口駅前.東北本線の上を新幹線が走る.
東野鉄道のホームがあった東口駅前に立つと、新幹線のコンクリートの城壁で
西方面の那須連山の景色は何も見えなくなってしまった。

東北本線宇都宮・上野方面が3番線であるのは今も昔も変わらない.

4番線の東野鉄道のりばへ向かう連絡通路があった. 1966.12.30

この時は蛇尾川鉄橋の流出で西那須野~大田原間の折り返し運転で、
朝の3本を逃すと次の列車は夕方までない.


西那須野駅を出て右にゆるくカーブする廃線跡が遊歩道に.2010.12.7
次の乃木神社前駅のモニュメント.この先大田原まで遊歩道(廃線跡)が続く.

こんな景色の中を西那須野~大田原間を往復していたキハ501(元五日市鉄道) 1966.12.30

那須連山を望む大田原駅の光景. 1966.12.30
大田原駅についての過去のアップはこちらです。