案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年2月27日日曜日

最後の筑波鉄道 酒寄

筑波駅近辺で見える丸見え筑波山とは違って、酒寄から北方の沿線では奥ゆかしい筑波山の変化を楽しむことができる。真壁から土浦方面に向って進むと、酒寄の手前までは筑波山のカタチが刻々と変化するが、県道と並行するあたりから筑波に向けて人家が多くなり平凡な風景となる。
こんな筑波山が見える沿線風景は今も変わらないが、酒寄と上大島の駅の跡は県道41号線の整備により道路に飲み込まれてしまった感じがする。畑の中にあった小さな酒寄駅は、今は道路脇に僅かに痕跡を残すのみ。


筑波山の北西部を行く。  紫尾 - 酒寄   1987.3.22


土浦行の気動車が広い田畑に出ると、まもなく酒寄に到着する。 1987.3.8


小さな酒寄駅。線路はこの先を左にカーブする。  1987.3.28


24年後の酒寄駅。県道41号線に沿って駅跡があり、表示板の枠が残る。
立派な道路の開通は廃線跡を飲み込んでしまう。  2011.2.25

2011年2月26日土曜日

最後の筑波鉄道 紫尾

筑波鉄道は消えてしまったが、自然豊かな茨城の沿線風景は今昔写真を並べてみると、24年経った今も殆ど変わっていなかった。変わっていたのは鉄道施設や駅の木立だけのようである。


紫尾 - 酒寄  1987.3.28


加波山を背景にした紫尾駅  1987.3.28

24年後の紫尾駅跡 2011.2.25


↑ 紫尾駅    1987.3.28

24年後の紫尾駅跡 2011.2.25



↑ 1987.3.28

24年後の紫尾駅跡 2011.2.25

2011年2月25日金曜日

筑波鉄道 本日の真壁

猫が好きさんからのコメントにあった、真壁の100軒超える文化財町並み真壁のひなまつり号バス(3月3日迄期間限定)を読んで、たまらず本日 ひなまつり号バスに乗って真壁へ行ってきました。
北千住からつくばエクスプレスに乗ってつくば駅まで35分、駅前のつくばセンターでひなまつり号バスに1時間ほど乗って真壁に到着。真壁まで走っている定期バスは4月1日から筑波山口~真壁間の便が無くなってしまうので、車がないと猫好きさんのコメントにあったように、今後はつくばセンターから筑波山口までバスで来て、そこからレンタサイクルで廃線跡をたどったって真壁まで来るしかなさそうです。

車を使えばどうということのない土地だが、今日の自転車による廃線跡巡りは車とは違って何かと快適なこと。筑波鉄道の廃線跡は土浦から岩瀬までサイクリングロードが完備しているようで、何回か来て全線を楽しめそうだ。
今日は真壁で無料レンタサイクルを借りて酒寄までの廃線跡を探索し、その先の筑波駅跡までは次回とした。そしてオマケに真壁の文化遺産の町並みめぐり、更に古いお雛様まで見ることができ、無料レンタサイクルのフル活用であった。真壁の町は昔よく車で通過したが、当時はこの古い町並みに全く気付かなかった。

真壁駅跡のホーム。 どの駅もホームはしっかり残されているようだ。
真壁のホームの桜も残っていた。 2011.2.25
加波山(左手)を背景に廃線跡のサイクリングロードがどこまでも続く。真壁~常陸桃山

真壁の町から見える筑波山

真壁の町並みには300余棟の見世蔵(店舗兼用)、土蔵、門があり
104棟が国の登録有形文化財に登録されている。


各家自慢のお雛様が座敷や店先・玄関先に飾られ観光客を楽しませてくれる。
古い町並みのごく普通の商店等(192軒)に飾られたところが素晴らしい。
江戸時代のひな人形が見どころだそうで、この街おこし10年くらい前に始めたそうだ。

2011年2月23日水曜日

仙北鉄道 築館線のこと

先日、昨年5月8日アップの仙北鉄道「軽便のたたずまい」に築館線(昭和25年廃線)のことを調べている築館伊豆郎さんからコメントを戴きました。私にとって築館線は瀬峰の廃線跡しか知らず、ここから延びていた軽便軌道の先に一体どんな光景があったのか、以前から興味深々でした。
コメントに書かれていた沿線風景を、瀬峰の車庫にあった2軸元ガソリンカーが走っている光景を想像して見ました。


瀬峰から延びる築館線(昭和25年廃線)の廃線跡。1964.8.4


築館方面行きのホーム 瀬峰  1964.8.4

'10年5月8日「軽便のたたずまい」のコメント欄より。
コメント1
私も仙北鉄道を調べている者で、当時の運転士や築館駅近辺で、築館線を利用した方に話しを聞くなど、そして探検隊のように築館線の軌跡を巡るなどして、自分なりにまとめております。このたびの写真を拝見して往時をイメージするには大変参考になり、また長年願っていた両親の故郷の景色を垣間見ることができ長年願っていた夢が叶った思いがしました。しかしながら時代の流れとはいえ、廃線になったのは本当に残念でならないと考えています。大変貴重な写真をありがとうございます。

コメント2
築館伊豆郎です。
築館駅は、その足跡が辿れない箇所が登米線よりもかなり多く、「・・・だろう」という手がかりと、町の古老(主に同線利用者と元運転士)たちの話で調べてみました。以下、Katuさんは既に知っているかもしれませんが、まず驚いたのは、実はかつて築館駅から更に西にある一迫・花山方面へと延長する計画があったということを知りました。(これは予算等の関係で頓挫したようです)
さて、
➀12kmの行程、築館駅(現税務署)を仮想出発すると、暫く直線を走りますが、その後、下り坂に差し掛かり、また平地へ、
➁緩やかに右に進路が向くと進行方向の左車窓にはかすかに伊豆沼の景色が見えてきます
➂そして更に右に進路が向くと今度はかなり長い直線を走り、
④やがて緩やかな登坂、今度は左に進路が向くとトンネルに入り、
➄そのトンネルを抜けると左側に山、右側には田園風景が広がり
➅更に直線コースを辿りながら東北本線を潜り瀬峰駅に合流するという感じです。

今、遺構として残っているのは
➀の近辺に車両を納めた車庫がその姿を見せてくれ、今でも倉庫として使っている模様です。
➁については、現在、東北自動車道が横切っておりますが、駅からこの近辺そしてさらに下ると相当の段差があった感がします。
④かつて何の気なしに築館と登米を行き来してましたが、まさか道路の下方に仙北鉄道のトンネルがあったなど知る由もありませんでしたが、よくよく見ると確かに写真に残されているコンクリート状の壁面が土砂に埋もれているのがわかります。
➄はその奇跡は殆ど体を為さない程、景色が変ってしまい、ある所は川の下に、またある所は田んぼの畦道になっています。
➅はその畦道から現在の県道に合流し、「藤里停留所跡地」と石碑が建ちやがて東北本線へと合流する具合だったそうです。また運手士だった方の曰く「瀬峰から出発していつも苦労するのは、そろそろ築館駅へという時、きつい登り坂なので滑り止めの砂を線路に撒くなど、時には車両を降りて先駆けて砂撒きしたんさ!」がとても印象的でした。今でもその方は瀬峰に元気で住んでいます。
追伸 登米市歴史博物館で購入した「仙北鉄道」の資料に、とても興味深い廃線路が記してあり、なんと約40kmに渉る私鉄「仙台鉄道」というものが、北仙台⇒西古川(現大崎市)を結んで鉄道が敷かれていたらしいです。今回は長くてすみません。

減速進行さんの 築館線路線図 を見ると築館~瀬峰の軌跡が分かり易いです。
廃線跡調査もリンクされています。

築館線現役時代には、この2軸ガソリンカーが走っていた。
瀬峰の車庫の奥にあった昭和9年日車製 ハフ407 (元キハ3)
元ガソリンカー  ハフ407 車両竣功図


こちらはコメントにあった仙台鉄道を走っていたガソリンカー。
仙台鉄道路線図

2011年2月22日火曜日

松尾鉱山のこと (続)

松尾鉱業鉄道について、更に画像アップ(一部再アップあり) してみます。
松尾鉱山の人達はこの列車に乗って大更で国鉄花輪線に乗り換え、盛岡などへ出たのでしょう。
列車が大更から東八幡平へ戻って来る時は、上り勾配を超スローで牛車のようであった。

発車間近の混合列車。 東八幡平  1966.3.2


山を下りて来た混合列車が大更に到着。

ハチロクの列車が走っていた国鉄花輪線。 大更駅
松尾鉱業鉄道からの乗客は国鉄「花輪線のハチロク」へ乗換え盛岡方面へ向かう。


大更から客車1両牽いて戻って来る列車。

遠い昔はこんな客車の混合列車が走っていたのでしょう。
東八幡平 1966.3.2

↑ 郵便荷物車 ユニフ1。 大変な古典客車

↑ ナハフ8  東八幡平

↑ ハニフ4 ?

↓ラベルの鉄道名クリックで、アップ済み松尾鉱業鉄道が繋がります。

2011年2月21日月曜日

松尾鉱山のこと

先日、昨年6月16日アップの松尾鉱業鉄道「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」に興味深いコメントを戴きました。
松尾鉱業鉄道の終点東八幡平からさらに山の上にある松尾鉱山と鉱山町。
その鉱山町に小学校4年生の頃まで住んでいた方からです。

この終着駅から松尾鉱山の町まで、バスに乗ってかなり時間が掛ったそうです。
この写真を撮った1966(S41)年、この方は小学生で「雲上の楽園」と言われた鉱山町に住んでいた頃。
「雲上の楽園」の住まいのこと、閉山後廃墟となった鉱山町のこと等について書かれています。

更にこの上の鉱山町から見る岩手山はどんな風景であったのだろうか。

東八幡平の構内と背後の風景

'10年6月16日「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」のコメント投稿欄より

コメント1
過去、小さい頃まで松尾鉱山に住んでいたものです。
(小学校4年まで)やっとの事であの鉱山鉄道の写真を発見できました。
盛岡の祖母を訪ねるために、必ず利用したこの鉄道と駅舎、そして構内は今でも記憶に鮮明に残っています。鉱山に帰るのに、当時は花輪線の大更で乗り換えて、そして、この東八幡平駅でバスに乗り換えてと随分と時間がかかりました。
今は自家用車で気軽に行き帰りができる距離です。
今は全部取り壊されて、跡形も残っていませんのでとっても貴重な写真でありがとうございます。
閉山後、10年後に友達と遊びに行ったときは駅は貨物車、電車等がそのまま放置されて、雑草に埋もれていていたのをよく覚えています。


コメント2
丁寧なご返事ありがとうございます。
私が小学生の頃は1966-1969年でしたから、もう閉山が目の前でよく語り継がれている戦後から1960年頃の絶頂期とは程遠い衰退時期であったのでしょう。ですから、鉱山鉄道が人で混んでいたという印象は全くありませんでした。
鉱山のガラガラの誰もいない精錬の施設で使われないで置かれていた、トロッコでよく、友達と遊んだのを覚えてます。
私は当時、鉄筋コンクリートの水洗トイレ、スチーム暖房完備のアパートに住んでいました。とっても恵まれていたんですね。
毎年、何度も父と訪れますが、当時と比べて、植物が回帰してきたのか考えられないくらい草がぼうぼうと生えているのは驚きです。でもそれくらい、鉱山の排煙はひどかったということなのでしょうね。
もう鉱山鉄道の当時の写真を見るのは不可能なのかと探していたら、こんな貴重な写真の数々。
本当にありがとうございます。

2011年2月20日日曜日

最後の筑波鉄道 筑波北方の駅

筑波北方には似たような感じの駅が続き、撮影メモがないため撮影場所の確定に難航し、
この区間の全駅を北から南へ岩瀬駅から並べてみました。
駅の解説は「さようなら筑波鉄道線」記念乗車券の各駅スポットガイドより。
撮影は全て1987(S62)年1~3月。

岩瀬駅 国鉄水戸線乗換え駅、近くに県指定文化財「富谷観音」がある。

雨引駅 坂東33ヶ所霊場“雨引山楽法寺”(雨引観音)


東飯田駅 村の鎮守八幡神社(旧暦8月17日が祭典で花火大会がある)

樺穂(かばほ)駅 大ギセルで有名な加波山タバコ神社。筑波連峰の加波山への登山口。


真壁駅 雪見灯篭など石材加工の盛んな町、近くに伝正寺がある。


常陸桃山駅 筑波山を源にした男女川沿いに水車を利用した
ウドン、ソバが作られている。


紫尾(しいお)駅 県営筑波山ユースホステル入口、ここから日光・那須連山が眺望できる。


酒寄駅 みかん狩りに最適「観光みかん園」、近くに椎尾薬師がある。

上大島駅 白壁土蔵、古い家並みが続く真壁街道。 

筑波駅 名峰筑波山への登山口。縁結びの筑波山神社、筑波梅林。

最後の筑波鉄道、最終日の3月31日に向けてまだまだ続きます。

2011年2月19日土曜日

最後の筑波鉄道 真壁

筑波北方の中心駅 真壁は灯ろうなど石材加工が盛んな町で、近くに伝正寺がある。
交換線の両側に貨物側線があり、桜の木立がある古い木造の真壁駅は、模型にしたくなるような好ましい駅であった。こんな駅を廃線まで残り少ない日々を気動車が坦々と行き来していた。
派手なお別れ飾り付けもなく、廃線直前に小さなヘッドマークを付けただけで地味な廃線直前であった。

真壁駅 1987.3.8

1987.3.8


桜の蕾が膨らみ、満開前の31日に最後の日を迎える。  1987.3.28
最終日は、最終列車が真壁に到着した時点で筑波鉄道はその役目を終える。


あと数日で見られなくなる駅の風景 1987.3.28

石材加工の町、真壁。町の至るところに石屋さんがある。 1987.3.22

2011年2月17日木曜日

最後の筑波鉄道 岩瀬~雨引

土浦から北へ40km走ってたどり着く終着駅は国鉄水戸線岩瀬駅の端にあり、周りは一面畑で静かな駅で、冬の抜けるような青空の下、 気動車のツートンカラーが鮮やかであった。3月末の廃線まで残すところ3ヵ月を切った1987(S62)年1月の風景。

岩瀬  1987.1.18

岩瀬から加波山へと筑波北方の山並みが連なり、
そんな山並みを背にして雨引まで長閑な沿線風景を行く。



山の梺に雨引観音がある雨引駅