案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年8月31日水曜日

貴志川線 伊太祈曽の車庫

朝のラッシュ時間帯に活躍した元気動車を電車化した3両編成は伊太祈曽駅で1両と2両に分割されると車庫へ向い、モハ202は車庫内でピット作業が始まった.
暫くしてモハ202と、クハ803+モハ201はまた元の運転に戻って行った。

車庫に戻るモハ202  伊太祈曽  1965.8.4

車庫に戻るクハ803+モハ201

伊太祈曽の小さな車庫の中では、戻って来たモハ202の点検が始まる.奥には改装中らしい2両が。
車庫の内部や周辺にはいろんなものがあり気になるもの。例によってオリンパスペンSでメモ代わりに撮ったネガの中を探してみると車庫の内外が写っていた。ハーフのメモ撮りカメラはありがたいもので、35mmカメラではまず撮らない風景がいろいろと詰まっていた。

↑戻って来たモハ202とモハ201. そしてモハ300廃車体が.
↑モハ300 元南海軌道線の大正10年川崎造船製
を昭和18年に譲り受け鉄道線用に改造.昭和30年廃車
  ビューゲルがついた片ボギー車 クハ801
元芸備鉄道の昭和4年日車製片ボギーガソリンカー、芸備→国鉄→和歌山鉄道でトレーラとして使われ、昭和30年クハに改造され昭和35年まで使われた。これに電動機をつければ片ボギーの電車となる楽しい車両


伊太祈曽の駅本屋と、左手に小さな車庫が.

2011年8月30日火曜日

貴志川線 真夏の電車2


東和歌山駅の朝 (モハ206+サハ1827+モハ205)  1965.8.4
東和歌山の朝は電車総動員で、次々と驚きの電車登場で楽しいひと時となる.
ラッシュが終わると朝の編成はバラバラに切り離される.

朝の通勤列車  東和歌山 (モハ201+クハ803+モハ202)
ドアを開け放した夏の通勤電車は満員で東和歌山に到着する.
元ガソリンカーだった電車の3両編成はとびきり魅力的であった.


朝の通勤時間帯にはこんな電車もやって来た.  モハ603+クハ802

モハ205+サハ1827+モハ206  伊太祈曽  ポップアップ
遠くの家並みと右隅の廃車体が気になる.

伊太祈曽の交換風景

朝の3両編成から切離された昭和6年製生え抜き車は単行で動いていた.モハ202

2011年8月28日日曜日

貴志川線 真夏の電車1

真夏の電車と言えば思い浮かぶのが淡路島や和歌山の電車で、和歌山では貴志川線の珍品電車が走る風景が忘れられない。和歌山市郊外を夏の陽を一杯に浴び元ガソリンカーなどの電車がのんびりと行く。
一台一台が個性豊かな電車の紹介の前に、まずは貴志川線 真夏の風景から。

( 昨年4月22日に概要紹介をアップしましたが、今回はもう少し詳しくアップするものです )
モハ205    大池遊園  1965.8.4   ポップアップ
炎天下での撮影に疲れ大池遊園の池にしばし癒される.

モハ605+クハ804  伊太祈曽  ポップアップ
和歌山市郊外の低く連なる山並みとその土地の民家、そんな中を夏の陽を浴びてのんびりと行く。

クハ803とクハ304  大池遊園の交換風景
朝のラッシュも終わりのんびりとした時間が過ぎる.

クハ803+モハ201+ワム  大池遊園
元ガソリンカー803を先頭に貨車を従え楽しい編成でやって来た貴志行き列車.


素晴らしいクハ803に乗って通学する楽しそうな高校生達

モハ201+クハ803

2011年8月26日金曜日

横浜市電の車両


横浜市電の4輪単車に惹かれて ボギー車含め戦前、終戦直後生まれの古参車両を並べてみました。
廃車体800形を除き、昭和30年代後半の横浜市電では、こんな古参車両を見ることができた。

撮影日 特記なしは1963年5月3日

大正生まれの4輪単車 400形

昭和4年製で4輪単車で最も台数が多い 500形 桜木町駅前

単車500形と600形が顔を揃えた横浜駅前 1964.10.10

 昭和3年製の初の大型鋼製ボギー車 1000形 滝頭車庫

昭和11年製で戦災復旧車 1100形 横浜駅前 1964.10.10   ポップアップ

昭和17年製 1200形 滝頭車庫

昭和14年製の木造4輪単車 700形. 桜木町駅前を出て弁天橋を渡る.

桜木町駅前


戦時設計(200形改)の800形 滝頭車庫


戦災で全焼した500形15両の戦災復旧車 600形 高島町


参考文献: RMライブラリー第120巻 横浜市電(下)

2011年8月24日水曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機4

鶴見線の駅で見た日本鋼管鶴見の蒸機は、前回のボールドウィン古典機10号と有名な珍品古典機クラウス12号、そして協三工業製18号であった。撮影場所が不明確であったが訪問記を見つけ鶴見線浅野と弁天橋で撮ったことが判った。

訪問記より。
扇町の三井埠頭を引きあげて鶴見線浅野に向かった。この辺はクモの巣ごとくレールが敷かれさっぱり分からない。駅のそばに置いてあった産業用SL(日本鋼管18号機)を撮り、弁天橋へ向かった。鶴見線と工場専用線が並行して走るので駅は絶好の撮影場所であった。弁天橋で電車を降りたとたん遠くにカン高いホイッスルの音が聞こえ怪しげなSLがこっちにやって来た! 目を開けてよく見るとあの1Bのクラウスであるのには驚いた。そしておまけにもう1両やってきたのはあのボールドウィンであった。
どんよりとした天気が不満であったがこの幸運に大満足して引きあげた。

弁天橋に現れたクラウス12号機。この珍品中の珍品は、クラウス1907(明治40)年製で青梅鉄道が改軌に備えた1B形タンク4両の1両が日本鋼管鶴見製鉄造船12号機となった。煙突より後ろの位置に先輪があり、シリンダーがさらに後方にずれ缶だけが先走った姿をしていた。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図2の記述より)

カン高いホイッスルを鳴らし現れたクラウス12号機

日本鋼管 12号機  弁天橋  1964.12.25


引き続き熔銑車2両を牽いて現れたのはボールドウィンCタンクで10号機であることが写真で判る。このボールドウィンは9号と10号があり同タイプのようで明治村へ行ったのが9号機らしい?
日本鋼管鶴見の内部に入って調査された田辺幸男様のサイトに9号機の銘板(ボールドウィン製番)の写真があり9号機の製番37944は明確になっている。
元は富士身延鉄道1~3号で、その2号と3号が日本鋼管鶴見の10号と9号になったらしい。

 
熔銑車を2両牽いてやってきたボールドウィン10号機
 
日本鋼管 10号機  弁天橋  1964.12.25



浅野で見た産業用機関車は協三工業製28トン機で、日本鋼管鶴見製鉄所の18、19号機として1951(昭和26)年に製造された。協三で製造した最大(重量)の機関車である。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図3による)
 
日本鋼管 18号機 浅野 1964.12.25
 



2011年8月23日火曜日

横浜機関区 1963年5月、横浜。

1963年5月、横浜市電を撮る前に横浜高島町の高島駅(貨物)の一角にあった横浜機関区を訪問した。
横浜~桜木町間の高架を行く東横線を挟んで横浜市電の反対側に横浜機関区があり、扇形機関庫の中にC56が3両休み、外には火を入れたC56が1両が待機していた。庫内のC56の2両は休車であった。
関係者の話では年内には蒸機は消えDD13に切り替わるとのことで、大変な数のDD13が入線していた。横浜機関区の蒸機が最後を迎えた1963年5月のことであった。

扇形機関庫に休むC56.2両は休車であった. 1963.5.3


C56に代わって主役はDD13に


作業に出て行く C56160


間近に初めて見たC56.


美しいハチロク58681も健在であった.

38644とC1132は使われなくなって留置線に.

2011年8月20日土曜日

「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。

宮崎駿さんのメッセージに惹かれて
1963(昭和38)年の横浜を舞台としたスタジオジブリの映画「コクリコ坂から」を観てきました。
昭和38年の時代描写が実に巧みで、あの何とも言えない風景に懐かしさが込み上げてきました。
映画が終わって外に出た瞬間、現実の風景とのギャップに複雑な気持ちになったものです。
何かが失われようとしている時代から48年が経った。

↓ 企画・脚本 宮崎駿さんのメッセージの一部。 「コクリコ坂から」公式サイトより
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「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。
団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。
首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。
1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。
貧乏だが希望だけがあった。新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。
とはいえ、映画は時代を描くのではない。
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「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。
ちょうどこの1963年に横浜市電を撮ってあった。
撮った日は5月3日の祭日で横浜は五月晴れ、市電には日の丸の旗が立てられていた。
東京オリンピック前年だが道路工事中の混乱は写ってなく休日のせいか道路も空いていたようだ。
頻繁にやって来たのが単車500形でダブルルーフの400形も走っていた。
既にツートンカラーは消えてクリーム色に青帯の車体であった。
もしあの時に当たり前の風景の貴重さに気付いていれば、全く違う視点で街と市電を撮っていたのに・・・・。

麦田町の本牧トンネル.  1963.5.3

 
トンネルの向こう側は元町


高島町交差点


紅葉坂

  終点杉田の近く   ポップアップ
トラックのスタイル、中華洋食屋、看板、高い煙突などがこの時代らしい.
高い煙突から吐き出る黒い煙は全国どこにでも見られた.