案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年8月31日火曜日

山峡に汽笛が響いた日

観音下 - 倉谷口     1970.11.3
                                                                                                
秋晴れの日、山間にかん高い汽笛を響かせて軽便蒸機列車がやってきた。
後方には鉱石運搬索道の防護柵が見える。観音下 - 倉谷口



山峡に汽笛が響いた日

軽便蒸機が走った1970年の11月3日、尾小屋駅構内では秋晴れの朝を迎え5号機が朝日に輝いていた。軽便とはいえ、立山重工製の産業型14トン機はかなりの体格で堂々とし、昨日見てきた糸魚川のミニSL協三6トン機とは対照的な蒸機であった。
尾小屋  1970.11.3

尾小屋

職員が慌ただしく動き、給水タンクの脇で5号機に給水が始まった
尾小屋

2010年8月30日月曜日

渓流沿いを走る

尾小屋の真夏の軽便から8年たった1970年の秋、この渓流沿いの風景を軽便列車が変わらず活躍していた。この日はSL 5号機が走った日で、観音下をうろついた一枚です。
最後の頚城、糸魚川の東洋活性白土ミニSLを撮って、尾小屋に駆けつけた軽便最後の時代。
秋晴れの素晴らしい一日であった。
観音下 - 倉谷口       1970.11.3
       
 単行でフラフラやってきたキハ1         クリックでポップアップします
       観音下

鉱山ゴンドラのある風景に、DL列車が登場
観音下 - 倉谷口

2010年8月29日日曜日

尾小屋鉄道 真夏の軽便

途中、炎天下の金平駅で一休み。だんだんと山間に入ってくる。
客車の窓とドアはフルオープンで心地よい風が流れ、心地よい振動で楽しさ最高潮に。
金平      1962.8.1

新小松 - 西吉竹
夏の陽を浴びて流れる清流に沿って、木立の間をナローの細いレールが延びる。
オープンデッキから見る元鉱山鉄道の堪らない光景が終点尾小屋までつづく。
山間を登る軽便の軌道は模型にしたくなるような光景であった。
                            クリックでポップアップします
観音下 - 倉谷口

2010年8月28日土曜日

尾小屋鉄道 真夏の軽便

ヘロヘロな軽便の客車
昭和37年7月に三重交通から入線した直後の姿はかなり傷んでいた。
大正14年日本車両製の好ましい木造客車で、この後車体が半鋼製化される。
                                                         (クリックでポップアップします)
ホハフ7(元三重交通サニ403)  尾小屋 1962.8.1

尾小屋    1962.8.1

2010年8月27日金曜日

東急玉川線3 上通

(クリックでポップアップします)
上通     1969.4.22

東急玉川線2 渋谷

廃線から41年、すっかり変わってしまった玉電渋谷駅の跡。
昔の駅風景に、今の玉川改札前の風景を対比させてみました。

玉電渋谷駅の前方に山手線の改札口があり今も「玉川改札」の名称が残っている。
                                                                               (クリックでポップアップします)
渋谷駅     1969.4.22
山手線 玉川改札    2010.8.27

玉電渋谷駅ホーム。 上に地下鉄銀座線が見える。

山手線玉川改札を出て、この先一直線に玉川線の駅があった。
左店舗の上に地下鉄銀座線があり、右手の先に井の頭線がある。
岡本太郎の壁画の裏に地下鉄銀座線があるので
この壁画の前が線路があった位置であろう。

2010年8月26日木曜日

東急玉川線1 三軒茶屋

地方ではないが、この時代の東京の私鉄・路面をアップしてみます。
1969(昭和44)年5月に今の世田谷線を残して廃止された東急玉川線。その直前の三軒茶屋の光景である。東京でも60年代らしい光景は至るところにあったが、足元に気付かず撮らなかったのが今になって悔やまれる。東京オリンピック開催から5年、玉川通りは拡大されモータリーゼーションも本格化し庶民でも車が買える時代に。まだ高速道路はなく空がひろく見える。
(クリックでポップアップします)
三軒茶屋   1969.4.22

玉川通り 三軒茶屋

2010年8月24日火曜日

志摩線 鳥羽

1964年7月6日の異常に熱い日、名古屋から関西本線のC57列車に乗り、亀山機関区で現役のC51225詣でをし、紀伊本線・参宮線の亀山発のC57列車で鳥羽へ向かった。紀伊半島ではSL列車がまだまだ何本も活躍していた。
紀伊本線から別れる参宮線の終点鳥羽は遠い地の果ての感じがしたが、宇治山田まで来ている近鉄を利用すれば便利な土地であったのだろう。
鳥羽は海に囲まれた風光明媚な土地。関西・名古屋の奥座敷のせいか、洗練された小奇麗な印象を受けた。この鳥羽から更に奥の賢島まで走る三重電鉄志摩線の沿線は、美しい風景があったものの私鉄ローカルカラーは平凡であった。
                                                                            
風光明媚な鳥羽で、C57と志摩線の電車が出会う       1964.7.6

参宮線の終点鳥羽駅  亀山から列車を弾いて来たC57

賢島行き電車のりば   鳥羽


左手に鳥羽の海を見ながら賢島へ向かう   鳥羽

2010年8月23日月曜日

野上電鉄 日方駅と接続口駅

日方駅は国鉄海南駅と接続していないため、80mほど先に乗換え専用の「接続口」駅がある変わった駅であった。
この二つの駅の間に拡がっている留置線には、南側に迫る和歌山の山並みを背に、至るところ元阪神の小型車オンパレードであった。よくぞこれだけ同類を集めたもので、5枚窓モハ24以外はどの車両もよく似ている。富山地鉄笹津線からやって来た小さなデ10型が入線したのは、この後の時代であった。
後に人気者となった元阪神5枚窓のモハ24は既に入線していた。

小型車オンパレードの留置線の先に、接続口駅の小さなホームの端が見える。
左からモハ26(阪神)+クハ104、 モハ23(阪急)、  モハ31(阪神)+クハ101、  モハ24(阪神)    日方 1965.8.4


日方駅を発車したモハ32(元阪神)  

日方駅を発車した電車は、構内の端にある接続口駅に直ぐ到着する。この駅と国鉄のホームは通路で繋がって、外に降りることはできない駅である。この駅を出ると左にカーブし東へ進み山に向かう。
日方駅を発車したモハ32は、直ぐに接続口駅に到着する

2010年8月22日日曜日

野上電鉄 日方駅

日方駅の枕木を積み上げたようなホームの裏に車庫(写真右手建物)があり、お断りして中を見せてもらった。
モハ26(元阪神)   日方駅  1965.8.4

庫内には元阪神869(→野上モハ51)の車体がマルーン色のままで置いてあり、あちこちに外された様々な電動機が積み上げられていた。この車両も他の譲受車の中古台車を流用して登場したようだ。

車庫の外には、野上電鉄で最も大型だった3扉のモハ23(元阪急1形26)が出場するところであった。この車両もまた電動機とブリル台車は南海の中古品を流用したらしい。こんな由緒ある名車が活躍していた時代であった。
モハ23(元阪急)       日方

2010年8月21日土曜日

野上電鉄 日方駅

紀伊本線海南駅から離れたところに、野上電鉄の起点日方駅があった。国鉄海南駅との乗換えには別に接続口駅のホームがあった。
駅前を歩いている二人はこの電車の運転手と若い車掌であろう。駅前雑貨店に掲げた野上電鉄の看板の絵は一体何を意味しているのか?  背後には海南駅の国鉄蒸機の煙がたなびく。
夏の陽がかたむく頃、日方駅の光景はこの時代独特のものを感じさせてくれる。


2010年8月20日金曜日

内部・八王子線


天白川沿いに走る八王子線  西日野 - 日永

天白川に沿って走る八王子行き電車   室山 - 西日野    1965.8.5

魅力的なモ231(元松坂線)    内部

内部の車庫では近鉄カラー(マルーン)に塗り替え中であった。

2010年8月17日火曜日

内部・八王子線 四日市駅の大人と子供


近鉄(元 三重電気鉄道)内部・八王子線は今も現存している軽便であるが、
四日市駅の風景や昔の軽便電車は消滅してしまった。
四日市駅では軽便と標準軌の電車が対面する場面があった。
標準軌と並んでみると、乗客の大きさは同じなのに、軽便がいかに小さいかがよく分かる。
小さな車体に載せて張りあげたパンタの大きいこと。

近畿日本四日市駅  1965.8.5

近畿日本四日市駅

近畿日本四日市駅

2010年8月15日日曜日

雄勝線 湯沢

尾花沢線を終えると、その日のうちに奥羽本線大石田から湯沢へと向った。
陽も傾き始めた湯沢の街には、明日からの七夕まつりで絵灯篭が飾られていた。国鉄湯沢駅の隅に雄勝線のりばがあり、朱と黄のツートンカラーに塗られた電車が牽く混合列車が1時間後の発車を待っていた。デハ7+ト+ハフ14+ワフ1

  
この混合列車に乗り電車区のある西馬音内まで往復してみた。夕日を浴びた古典2軸客車のデッキから見る沿線は、田んぼの小川で遊ぶ子供達など長閑な田園風景であった。明日の撮影ポイントを決めて湯沢に引き返すと、例によって駅前旅館で一番安い宿をみつけて宿泊した。

湯沢駅に到着したデハ6    1964.8.6 

湯沢駅  西馬音内 梺方面のりば   ホハフ5+ハフ14
翌日、宿の前の商店街では朝から七夕まつりの飾りつけが始まっていた、七夕まつりと言っても仙台の七夕とは違って素朴な飾りである。雄勝線湯沢駅も、七夕祭りで客が多く活気に満ちていた。夕方になると路地のあちこちで行商の人たちがリヤカーの上に店開きしていた。
東北地方はお盆で最も混み合うシーズンとなり、超満員の奥羽本線の列車に乗り込み湯沢を後にした。

2010年8月10日火曜日

仙北鉄道 スイッチバック駅 米谷

匿名 登米からやってきた列車が米谷駅へ到着する。 左手が米谷駅。 1964.8.4

北上川の土手に沿って瀬峰行き列車が行く

              スイッチバックした列車が瀬峰へ向かう 


匿名 匿名 さんは書きました...
軽便らしい雰囲気が伝わってくる一連の仙北鉄道の写真です。こんな風景、日本では見られないが、ゆったりとした時間の流れを感じますし、新たな発見をした思いです。青蛙
2010年8月12日 5:05
 削除
Blogger katsu さんは書きました...

青蛙さん
感想ありがとうございました。
私もいろいろと発見がありましたが、35mmで撮ったものより、ハーフサイズで撮ったものに楽しいのが沢山ありました。                                                                           

2010年8月9日月曜日

仙北鉄道 終着駅登米

1964年8月始め、この年の夏はいつもの仲間 iwaさん青蛙さんと3人で、上野19時25分発の常磐線経由の臨時準急に乗り東北私鉄めぐりに向かった。夏休み8月と言えば、上野駅の夜行列車に乗りこむ学生たちは、東北三大祭りや北海道へ向かうのが普通であった。リュックを背負った姿がカニ族と呼ばれた時代。観光地にはまるで縁のない我々の私鉄めぐりの旅は、かなりの変人だったろう。

8月3日花巻電鉄を終え、夕刻に瀬峰へ移動し、駅前にあった農家を改装したような安宿に泊まり、翌朝の一番列車から仙北鉄道を撮り始めた。この日はどんよりした天気で、夏本番とは思えない秋のような涼しい一日であった。

登米行きの列車に乗り、スイッチバックのある米谷を過ぎ、終点登米まで乗車したが、穀倉地帯の沿線風景は余りに単調でがっかりしたものだった。終点登米の駅前は街らしい様子はなく静まり返っていた。登米~米谷間もあまりにも単調で撮影もすぐに引きあげてしまった。
米谷駅では各方面にバスが出るなど、登米よりは賑やかで、列車交換がありスイッチバックを行き交う貨物列車や旅客列車を次々と撮れた。
登米(とよま)駅   1964.8.4

登米ー浅部

登米ー浅部を行く貨物列車

終点登米駅全景
終着駅の車庫
登米駅前の風景  駅舎は今もバスの待合室として使われている