案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年10月31日日曜日

駿遠線 袋井工場

駿遠線では蒙古の戦車を始めとし、様々な車両が袋井と大手の工場で自社製造されていた。

駿遠線袋井工場物語 
袋井工場では日常的な車両の整備・点検だけではなく、機関車や客車の新車の製造も行われていました。工場の規模は小さく、機械設備も必要最小限で、更に工場の建物もバッラック同然でした。しかしそこには台枠や台車といった足回りから、客車・機関車・内燃客車(気動車)をそっくり製造する能力があり、一時期は新車が続々と誕生して行ったのです。当時あらゆる技術を可能にしたのが、まさに野武士軍団とも呼ぶべき、腕の良い「現場職員」たちでした。同工場は1967(S42)年8月27日に閉鎖されました。
中村修著: 駿遠線物語より

1967(S42)年7月に訪問した袋井工場は、この2か月後に袋井~新三俣間廃線と伴に工場閉鎖された。そして蒙古の戦車DB601~609は全廃となった。かってはエンジンと変速機を元に、蒸機の下回りを活用して様々な蒙古の戦車DBを製造していた袋井工場が興味深い。

袋井工場の全景。すぐ裏を東海道線が走る。  1967.7.9

この建屋の中で、様々な車両の改造や新造が行われたのであろう。


工場の一角

1967年7月に袋井で見た美しい蒙古の戦車は、DB全廃直前の最後の姿であった。

2010年10月29日金曜日

駿遠線の蒙古の戦車

6月25日にアップした駿遠線「9両の蒙古の戦車」の個性豊かな表情を一覧にしてみました。

蒙古の戦車の中には、撮影時期で外観が異なる変形機もあったが、1967(S42)年頃まで列車を牽いて活躍していた主役は背面が丸いDB604、607、608、609などであった。
蒸気機関車の下回りを使って自社工場で改造しただけあって、号機ごとに外観が異なり実に個性豊かなDB機関車であった。
1964(S39)年頃の袋井駅構内は、次々にDBが牽く列車の発着でDBが何台もたむろし、まだまだ蒙古の戦車活躍の時代であった。しかしこの年の9月に路線縮小が始まり、DBも次第に活躍の場を失って行った。

蒙古の戦車(DB609と608)が次々と発着していた時代。   雨の袋井 1964.3.25


DB601  相良  1966.9.23


DB602  相良 1966.9.23


DB604  袋井 1964.3.25


DB606(元605でこちらが元赤穂鉄道?)  相良 1966.9.23


DB606  新藤枝 1964.3.25


DB607 袋井 1967.7.9


DB608 袋井 1963.4.4


DB609 袋井  1967.7.9

・銘板でDB606が2台あるが、どちらが元605であったかは中村修著:駿遠線物語による。
・ここにないDB603はこれ以前に廃車済みであった。
下記のラベル 静岡鉄道駿遠線をクリックすると、今までの駿遠線投稿と串刺しになります。

2010年10月28日木曜日

竜ヶ森のハチロク2

昨日の「竜ヶ森のハチロク」続きで、竜ヶ森トンネルの反対側から竜が森に登って来るところです。
先頭についたハチロクの重連。
竜ケ森 - 岩手松尾   1966.3.2
竜ケ森 - 岩手松尾   1966.3.2
松尾鉱業鉄道が発着する大更駅に到着したハチロクの旅客列車   1966.3.2

2010年10月27日水曜日

竜ヶ森のハチロク

1966(S41)年3月、松尾鉱業鉄道を撮った後、国鉄花輪線の名所「竜ケ森」へ。
雪の中で待って撮ったハチロク3重連のネガをやっとスキャンしてみました。
あまりの感動にシャッターを押す手が震えた事が思い出される。

前1後2のハチロク三重連で勾配を登りトンネルに突入する。  

遠くに後部補機が噴き上げる煙が見える。     竜ケ森 - 赤坂田 1966.3.2
ドラフトを響かせてハチロクがトンネルに突入していく。
後部についたハチロク2両が現れる。

2010年10月22日金曜日

遠鉄奥山線 春の陽を浴びて

何回かアップしてきた浜松の遠鉄奥山線です。

1963年に始めて訪問した時は、春の暖かな陽を浴びて遠鉄浜松駅から廃止直前の奥山まで走っていた。遠鉄本線の西鹿島線と並ぶホームから発着する小さな電車は、マルーン一色でとても地味な感じであった。品の良いツートンカラーにでも塗られていれば、もっと軽便電車の魅力を発揮できたのかも知れない。
車両の経歴が複雑な越後の栃尾線に較べると、奥山線は実にシンプルで分かり易い。
栃尾線の驚きの車両のような面白さはなかったが、電化区間から非電化区間へのバトンタッチ、三方ケ原台地から浜名湖北部にかけた沿線風景など、軽便風情に魅力があった。

隣りの遠鉄西鹿島線と並行する遠鉄奥山線。架線高さは西鹿島線と同じで、小さな車体の屋根に、目いっぱい上げたパンタが大きいこと。


遠鉄浜松を出発した曳馬野行き列車 モハ1003 + ホハ1110  1963.4.4
妻面が丸形の客車の車内に、女学生とほっかむりのおじさんの姿がよく似合う。 

春の暖かな陽ざしを行く。 北田町 - 元城 1964.3.23


川に沿って民家の脇を走る   遠鉄浜松 - 元城 1963.4.4


遠鉄浜松から二つ目の元城駅と車庫の全景 1963.4.4

モハ1002 + ホハ1106      元城 1963.4.4

2010年10月21日木曜日

九十九里鉄道のあとかた

1961(S36)年2月で廃止された九十九里鉄道。
その頃、私はまだカメラもなく、東京から東金は遠い地で訪問を断念した。私にとって九十九里は憧れの軽便であり、軽便中の軽便を見なかった悔しい思いは今も続いている。

廃線から14年経った1975(S50)年5月の連休に東金駅の跡を訪ねてみると、そこには14年間も放置され続けた車両と軌道の跡かたがあった。
廃線後は遊園鉄道に車両を活用する計画だったらしいが、まさか廃線後14年も経って車両の一部が残っているとは思いもよらなかった。丸山車両製の単端キハ102やボギー客車ケハ111は解体された残骸のみであったが、ボギー貨車ケワ50形は台車をつけた姿で2両残っていた。駅構内のナロー軌道は残っていたが、その日はレールの取り外しや残骸整理の作業をやっていた。
九十九里鉄道の跡は、レールが残る軌道だけでも嬉しいが、整理直前のボギー貨車に会えたのは幸運だった。さっそく寸法を測りすぐ模型にして楽しんだものだった。

九十九里鉄道の跡かた ケワ50形  東金 1975.5.3








ケワ50形の前でレールが剥がされていた。
そばには無残な単端と客車の解体された残骸があった

2010年10月20日水曜日

会津滝ノ原線のC11

1970年代は車で移動し撮影する時代になり便利になったものの、魅力的な地方私鉄は残り少なくなってしまい、これ以降の撮影とネガの管理は適当になってしまった。この頃によく通った会津滝ノ原線のC11のネガを始めてスキャンしてみました。

それにしても当時の会津線の名称も駅名も、今やすっかり変わってしまったものだ。
紅葉の阿賀川沿いを行くC11の貨物列車
 楢原 - 弥五島        1971-11-3

会津田島 - 会津長野   水無川鉄橋    

会津田島 - 会津長野   水無川鉄橋


会津田島
会津田島

2010年10月19日火曜日

栃尾線 元小坂鉄道の台車2

次は元江ノ電の栃尾ホハ23。
1964年に見たホハ23は、その後クハ111に改造(S41年)されて総括制御時代を生き延びたが、これも廃線直前の長岡駅で撮ったネガに写っていた。台車を見ると何か異様な台車。これが元小坂の明治生まれの客車の台車とは知らなかったが、改めて見ると飛び出したバカでかい軸箱はそのままだが、イコライザーは消えて別方式になっている。元小坂の台車の基本部品を活用したように思える。
写真右: 元江ノ電の栃尾クハ111  長岡 1975.3.8
クハ111の台車  

次に総括制御時代の新造車(S42年)クハ102~104。
この新造車に元小坂古典客車の台車流用ということで、写真を拡大して台車を見ると上記の元江ノ電のクハ111とは違ってイコライザー式?のように見える。こちらの方はかなり元小坂の原型に近い台車だったのだろうか。
←側2両が新造のクハ。   クハ104+クハ同形+サハ(元草軽モハ)+モハ217     1975.3.8


ということで、1964年の栃尾線訪問時に見た珍品 元小坂の古典客車の台車、元草軽の客車、元江ノ電の客車は、その後の総括制御時代に生き延び、廃線まで活躍した姿の一端をネガから確認することができた。

2010年10月18日月曜日

栃尾線 元小坂鉄道の台車1

小坂鉄道からやって来た明治40年製の古典客車5両の台車全てが、1964年3月の光景の後、様々な車両に活用されているとのことで、まずは元草軽ホハ23(当時は庫内で改装中)のその後(1975年)をネガで調べてみました。

前年(1963年)に来たばかりで車庫に留置されていた元小坂のアメリカン調古典客車5両。
その後まもなくして廃車になり、台車のみが活用されたようだ。
小坂鉄道の客車が5両入線していた。長岡 1964.3.22
これが明治40年製の客車のイコライザー式台車で、軸箱がデカイこと。
元小坂ホハ7の台車  加津保 1964.3.22

栃尾線で1台だけあった元草軽ホハ23は 栃尾ホハ26(S35年入線)→サハ305(S45年)→ホハ50となる。総括制御時代にサハになって生き延び、その後ホハに戻り廃線を迎える。

廃線(1975年4月)の一ヵ月前に長岡で撮ったホハ50(元草軽ホハ23)
ホハ50    長岡 1975.3.8
このホハ50の台車を見てみるとイコライザー式台車だか、これは元小坂ではなく、
草軽ホハ23元々の台車のようだ? 似ている箇所があるが、わざわざこんなカタチに
改造するとは考えられない。他の車両に履いている異様な台車?は元小坂の台車の
進化であったことが推測できる。
ホハ50の台車

参考文献: 寺田裕一著「消えた轍」3

2010年10月17日日曜日

栃尾線 悠久山駅での驚き

朝のラッシュ時間帯が終わると、上見附で見受けた客車の多くは悠久山駅の構内に
休んでいて、悠久山の留置線は、さながら古典車、珍品車の展示場のようであった。
下の写真のモハ211の前身が凄い。
残雪の越後の山並みバックに、モハ211が牽く編成。   悠久山 1964.3.22

朝のラッシュ時に活躍していた客車群。この後の近代化で淘汰された。  悠久山

悠久山の構内では元小坂鉄道の客車、元草軽電車の客車化、自社製のカマボコ客車など、
次々と目を奪われる珍品を見る事ができた。

ホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時にやって来た他の5両とは外観が異なる。

ホハ29 (元草軽の電車モハ102) この後サハ(303)化されて近代化に生き残る。


自社工場製のホハ20。 栃尾線の中で最も地べたを這うイメージで愉快なカマボコ客車。
もう一両の同型ホハ21は、何とモハ211(先頭の電車)へ変身している。これは凄い ! 

参考文献: 高井薫平著「軽便追想」

2010年10月16日土曜日

栃尾線 3両の松井車両

松井車両と言えば地方私鉄で活躍したガソリンカー、そのトレーラ化した姿を各地でよく見掛けたもので、無骨なスタイルが何とも言えない魅力であった。
1964(昭和39)年、栃尾線には松井製ガソリンカーのなれの果てのトレーラが3両活躍していた。ずんぐりして軽便客車としては大きな車体で直ぐそれと分かった。このトレーラ、元々は荷台付きの片ボギー・ガソリンカーで、エンジンをモータに載せ換えて電車化されモハ201~203となった。更にその後、電装を外されてホハ22,25そしてホハ13のトレーラになったそうである。

訪問時、モハ203のトレーラ化はまだ203の表示のままで、パンタは撤去されたが床下の電装品がそのままで一見電車風のトレーラであった。ホハ22と25の方は完全にトレーラになっていた。
それにしても、この松井3兄弟の驚くのは、前後が異なるなどチグハグの台車を履いていたことである。203などはブリル風台車に対し、もう一方はまるで架設台車みたいなものを履いていた。車輪軽も異なる。
ホハ13(元モハ203)  長岡

ホハ25も前後の台車が全く異なる。
ホハ25(元モハ202)  長岡
これら3両のトレーラは、ツートンカラーに塗られモハ201~203だった昭和30年代前半までが、最も魅力溢れる時代であったのではないだろうか。

モハ213に牽かれるホハ25と22
穀倉地帯を行く
長岡を出て、沿線一帯は何も無くどこまでも続く一面の田んぼ。 椿沢  1964.3.22


モハ213+ホハ25+ホハ22

参考文献: 鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり第一分冊