案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年9月26日月曜日

夏の沼尻行き

田辺さんのネガに遺された磐越東線のD60と磐梯山麓の沼尻鉄道。旅は常磐線四ツ倉のC62「ゆうづる」から始まっていた。1966(昭和41)年夏の小旅行、まだ常磐線や磐越東(西)線の蒸機、そして沼尻鉄道が健在のよき時代であった。

撮影:田辺多知夫氏 1966.08.09
常磐線特急「ゆうづる」 四ッ倉

夏らしい磐越東線のD60列車.

真夏の沼尻鉄道.
1967(昭和42)年秋に運転休止になる1年前、まだこんな沼尻らしい編成が走っていたのですね。この頃は磐梯急行電鉄になっていたのでしょう。

いかにも高原列車らしい雰囲気が.

冬とは全くムードが変わる夏の沼尻駅

素晴らしい真夏の沼尻デルタ線.

2016年9月21日水曜日

日本の風情6

大晦日の浅野川線. 粟ヶ崎 1964年12月

お盆休みの蒲原鉄道.五泉 1968年8月

2016年9月17日土曜日

美しき日本の風情5

夏の福島交通軌道線 1964年7月  撮影:田辺多知夫氏 
日本の夏の風情溢れる「さいわい橋」 

まるでジブリのアニメに出てきそうなシーン. 保原の電車通り


この写真を見た方からメールで位置情報を戴きました。ここは保原の交差点から掛田へ向かう電車通りで、左手にある勇屋(化粧品味噌店)と田澤商店(青果店)は今でも営業しているらしいとのことでした。Googleで確認してみると今の風景はこんなです。

今の通りと勇屋と田澤青果店.Googleストリートビュー

2016年9月15日木曜日

美しき日本の風情4


 美しき日本の風情、大江山を望む夏の加悦駅.1962.07.31 

嵐山線とダイハツ・ミゼットMP4型. 1964.07.10

松山市内線の朝.公園前 1969.5.2

昭和40年の瀬田の交差点と電停 玉電瀬田 1965.7.27 

この頃、電停前の米屋(木造二階建)で繰り広げられた物語が私小説「夜間急行」になった。本書はポケモンの生みの親である田尻智さんの父親義雄さんがモデルとなった小説です。ポケモンの田尻智さんはこの写真の1ヶ月後に誕生した。

今回、この瀬田の写真を再掲して今話題のポケモンのことに始めて気付きました。あの私小説に書かれていたのは、福島浪江町の寒村~瀬田の米屋~世界のポケモンへと繋がる話だったのです。この繋がりには驚きました。数年前、この私小説を読んだときはゲームのことは何も知らずポケモンもよく分からない私でした(泣)

2016年9月13日火曜日

美しき日本の風情3

茨城交通湊線 阿字ヶ浦 1972年夏
干しいも畑とステンレス気動車ケハ601に唯一魅力があった当時の湊線.


何も説明がいらない感動の一場面.
茨城交通水浜線 大串 1966年5月 撮影: 田辺多知夫氏

青蛙さんのこの1枚を初めて見た時は衝撃的であった.
茨城交通水浜線 大貫停車場 1966年5月 撮影:青蛙さん

2016年9月12日月曜日

美しき日本の風情2

北陸鉄道石川線 鶴来 1968.01.15
松本清張が小説の舞台として好んだ北陸の気候と北陸鉄道。「ゼロの焦点」に登場した金沢郊外の鶴来は殺人事件の舞台となったが、鶴来の地名がなんとも言えない風情を醸し出している。


美しき日本の風情、日永の夏.三重電気鉄道内部・八王子線 1965.08.05

スタジオジブリの「コクリコ坂から」の舞台となった昭和38年の横浜風景.
横浜市電 本牧トンネル.1963.5.3

真夏の軽便.沼尻鉄道 沼尻 1966.8.9  撮影:田辺多知夫氏

2016年9月10日土曜日

美しき日本の風情1

Facebookでシリーズ「美しき日本の風情」を始めたのが確かこの長崎の街の写真だったと思われます。どれもブログで公開済みのお気に入りの1枚で、これまでのFacebook投稿はたいした枚数でありませんが一覧で見れるようにしてみます。

1960年代の日本は決して「美しい風景」ではなかった。しかしそこには「日本の風情」があった。今は見違えるような美しい日本になったが、あの頃の「日本の風情」は失われてしまった。少し前の日本にあった「日本の風情」に何を感じるかは人様々であろう。

長崎の街 1967.03.02
グラバー邸の一角から長崎の街と大浦支線を眺める.築町から海岸通りを走り電停「大浦海岸通り」で→ へ曲がる大浦支線が見える.遠くの木立に囲まれた美しい三角屋根は活水女子大学のようだ.

長崎電軌 大浦石橋通り 1967.03.02
日本の至るところこんな街並みは消え、路面電車残れど昔の面影は観光建物(レプリカ)しかないのでは。

長崎電軌 大浦通り弁天橋(現在の大浦天主堂下) 1967.03.02
決して美しい風景ではないが、美しい風情があった時代.

鹿児島市電上町線 薩摩藩士碑の前を行く. 1967.03.01

鹿児島市電上町線 岩崎谷駅.1967.03.01
鹿児島出身の方が見て待合所の看板は堂園産婦人科だそうだ.そこのお嬢さんと同級生だったそうで、1枚の看板から話題が拡がる。

2016年9月5日月曜日

長崎のきっちんせいじ

長崎の眼鏡橋ちかくにある「きっちんせいじ」という楽しそうなレストラン。
お店の長崎電軌は何をモデルとしたのでしょうか。
一度入ってみたいものです。

最近のお店


長崎駅前の古典車160形 1967.03.02.  

 あの古野電気の前を行く170形(元西鉄) 長崎駅前 

思案橋から蛍茶屋へ向かう160形(元西鉄) 西浜町(アーケード前)


こんな木造単車が走っていた時代もあったのですね。

2016年9月1日木曜日

栗原電鉄 元ナローの電機

栗原鉄道の軽便時代の名残はED20形電機にあった。小さな軽便ボディーに762→1067mmゲージに改軌した台車。このガニマタスタイルは模型でいえば1/80 9mmナローを13mmゲージに改軌したようなものである。

軽便時代の電化そしてED20形3両の導入が昭和25年9月、762→1067mmゲージに改軌が昭和30年9月、この電機が軽便時代に走ったのは5年程度であったことになる。
(画像は2010年6月にアップ済の再掲です)

撮影:1966.03.01
ED202  若柳

ED202  若柳

若柳に休むED20形

田んぼを行くED20形

2016年8月29日月曜日

栗原電鉄 空腹と田園とM15形

栗原電鉄で私の記録は一言でいえば空腹と単調さ(田園風景、M15形一形式のみ)であった。何もない沿線はいつも空腹に悩まされる、そんな栗原の旅日記を追ってみます。

撮影:1966.03.01
 石越駅
仙北鉄道の訪問を終え、瀬峰から鈍行で石越に着くと連絡ホームはなく駅前に出てみると、単行のM15形が停車している栗原電鉄「のりば」があった。

 M152  石越
M15形(151~153)は先ほどまで軽便(仙北鉄道)に乗っていたせいか、ばかに車内が広く感じられ堂々とした車両に見え、アカ抜けしたスタイルにグリーンとクリームのツートンカラーが文句なく似合っていた。二つ目の若柳で下車し本社で許可をとると親切に車庫まで案内されて車両の説明までして戴いた。

M153 若柳
ちょうど元西武の二枚窓M18形(撮ってなかった)が入場中で、この日の運転はM15形だけであった。

M151 若柳
この駅の近くに高校があるようで今日は卒業式らしく免状らしい筒を持った女高生が三々五々駅に集まってきて駅は高校生で一杯になってしまった。やってきた電車は単行のため高校生で満員、車内には派手な広告がデカデカと下がっていた。

 M151 津久毛
沢辺まで切符を買ったが沿線は一面の田んぼばかり、仕方なくその先の津久毛まで乗った。ここは交換駅だが田んぼのど真ん中、入場券(コレクション)を買ってから外に出たが駅前に店はなく民家が数軒のみ。ここで飲食店に入って昼食の予定が狂ってしまい、空腹が続いた。


M15形
津久毛から細倉方面に歩き出すと、暖かい初春の日差しの下、仙北鉄道と同じように田んぼの向こうに連なる農家の佇まいの風景が美しかった。冬枯れの黄ばんだ枯草とぼつぼつ芽が吹いた新緑の木立、そして何かの木の花が咲き誇っていた春の訪れ。よく考えればこの日は朝から何も取ってなかったが、空腹を我慢して次の杉橋駅まで1.5kmほどを歩き出した。


 M15形 杉橋駅の手前?  いや駅の先かも知れない.
杉橋駅の近辺にはわりと家があり駄菓子屋くらいはありそうで先へ進んでみた。杉橋は無人駅で駅近くに石碑と松の木があるムードある駅でほっとした。駅前には商店街みたいなものは全くないが、あの淡路島にあったような駄菓子屋(今ならコンビニ)があったので、菓子パン2個(35円)を買ってやっと昼食にありつけた。川辺で菓子パンをかじっているとやってきたのがMT編成であった。

24レで石越へ戻ることにしてこの無人駅で休んでいると、あたりは暮れ落ち夕飯の支度なのか家々から煙が立ち上り、旅の寂しさを感じさせた。ベンチでボッーとしていると地元のお年寄りがこちらを向いて挨拶したのには驚いた。純朴な地方では地元の駅で誰とでも挨拶するのは当たり前なのだろう。